板わさを楽しむin神田~神田と蕎麦文化の歴史について~

多くの方々ご利用いただいておりますエリアキャンペーンの神田版を開始いたします。
江戸時代から350年、人々の食生活が変化する中で歴史と伝統のあるこの神田の地で蕎麦を楽しみながら神田の町並みや文化を楽しんでいただけたら幸いです。

神田と蕎麦について

江戸の町に、神田・日本橋・京橋ができたのは寛永9年(1632年)の頃といわれ、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれたのは寛文10年(1670年)とされております。その江戸に「蕎麦~、蕎麦~」と江戸の「けんどん蕎麦切り」が初めて登場したのは、寛文4年(1664年)のこと。

”けんどん”とは、江戸っ子の言葉の「つっけんどん」から来ており、愛想がない様子の呼び方で、転じて「蕎麦のおかわりをしないさま」を指していたとも言われています。

現在の東京の町の広さや人口が約10分の1だった江戸時代に、現代以上の蕎麦屋がひしめいていた事になります。これは「江戸わずらい」といわれた”脚気”の薬として、白米の5.4倍のたんぱく質、ビタミンBを含む蕎麦を江戸っ子たちは一日一食食べていたことになります。

また、作り方(切りベラ、23本という細切り)等や、食べ方(汁を蕎麦の3分の2だけつけて噛まずに食べる)等にも、江戸っ子としての粋がちりばめられ、ますます蕎麦が人気の食べ物となりました。

発見 町名由来 神田錦町二丁目

~神田錦町二丁目~
神田警察通りにそびえ立つ、「神田スクエア」の目の前に設置されている由来版。町名に錦の文字がつく理由や、武家地だったこの町が、現代でも多くの教育機関が立ち並ぶ”文教の町”として発展してきた経緯が分かる。

~キンキン広場~
各メディアでも度々取り上げられ、話題になっている。シュールなこの広場。もとは駐車場だった敷地をコミニュティの憩いの場として開放しており、現在は地域のお祭りやイベントの会場としても利用されている。”パンダ”の遊具は”カンダ”と掛けて設置されたという。地域住人からは「キンキン」の愛称で親しまれている。

~五十稲荷~
「神田錦町 更科」からほど近く、地域に根付くこの稲荷は安産の利益があるとして徳川家からも信仰されていたという。当時開かれていた織物市にならい、5と10の日に縁日の市が立ち、「五十の縁日」と呼ばれたことから、「五十稲荷」と呼ばれるにようになった。

発見 町名由来版 連雀町

~連雀町~
「神田まつや」の2本後ろの通りに位置する。明暦3年の大火「振袖火事」を免れた後、町は東京屈指の交通の要衝となり、樋口一葉が作品で記するほど、繁栄したことが伺える。

~竹むら~
昭和5年(1930)に竣工し創業。当時、神田に本格的な汁粉屋がなかったことから、汁粉屋らしい汁粉屋作りをめざして開業した。北海道小豆を原料とした自家製の餡を使用して、伝統の味を守り続けている。作家 池波正太郎も通ったことで知られる。

~出世稲荷神社~
ビルの谷間に佇む、立派な鳥居と社殿。伏見稲荷大社より分霊したと伝えられている。関東大震災で社殿は全焼したが、神璽は被害を免れ、戦災も免れたことから火伏のほか、商売繁盛、学業成就の利益があるとされる。

発見 町名由来版 旭町

「佐竹稲荷神社」に向かって、すぐ右隣に位置する。旭町は寛永の江戸図によると、能楽師・幸若太夫と出羽秋田藩の藩主・佐竹義宣の屋敷地であったことが書かれている。また、旭という名前は佐竹家の紋から付けられており、由来版では家紋の由来となる逸話について語られている。

~佐竹稲荷神社~
300メートルにも及ぶ「神田西口商店街」の中程に鎮座するこの神社は、寛永12年に秋田佐竹藩の江戸屋敷の”鬼門除け”のために建立したのが始まりと伝えられている。横から見ると分かるように、普通の民家に社殿と鳥居がくっついたような非常に興味深い造りをしているが、これには「天保2年の大火で屋敷が移転し、町屋となり社殿は町人たちにより再建された」という経緯がある。そのため、火伏の守護神として信仰されてきた。

発見 町名由来版 鍛治町二丁目

~鍛冶町二丁目~
ここ一帯にはバラエティ豊かな店が軒を連ね、さまざまな業種の職人が集まっていたことが読み取れる。なかでも二丁目界隈は刀や薙刀といった打物を扱う業者が多かったという。また鍛冶職人がこの町に数多くいた所以でもある、江戸幕府御用を勤めた鍛冶方棟梁・高井伊織についても触れられている。

~出世不動尊~
「浅野屋本店」を背にし、左に少し足を延ばすと赤い吊り看板に「出世不動尊」という文字が目に入る。この不動尊は徳川家の”表鬼門除け”として祀られたもので、本尊は智証明大師によって作られた。都内でも由緒ある不動尊として知られており、明治の頃には毎月2日、15日、20日、27日に縁日が行われ、植木商などが市を出し盛況であった。また歳末に開かれる”羽子板市”には多くの人が集まり大変賑わったという。東潮院不動尊とも言い、「出世・不動」という呼び名は、「相撲取りが信心すれば出世する」と言い伝えられたことが始まりと言われている。

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