JR御殿場線「上大井駅」から歩いて5分ほど。遠くに富士山を望む足柄平野は、見渡す限りの水田が広がっている。絵に描いたようなこの日本の原風景を眺めていると、すっと心が落ち着く気がするから不思議だ。そんな自然豊かな場所に井上酒造はある。重厚な石造りの藏と趣たっぷりの木造の建物に、歴史を感じずにはいられない。大きな杉玉が吊るされた門をくぐると、芳醇な香りがふわり。そこは伝統を今に伝える人々の静かな熱量で満たされていた。
小田原の米で酒を造る面白さ
井上酒造の創業は1789年(寛政元年)。以来、230年あまりもの長きに渡り、この地で日本酒を造り続けてきた。もともと酒造りは米農家が「おいしい米があるから日本酒をつくろう」と始めたところが多いため、必然的に米どころが酒どころになっている。実際、足柄平野は神奈川県随一の米どころで、井上酒造ももとは米農家だ。
その後、酒専門の酒米が品種改良され、ごはんとして食べられる飯米から酒を造ることは各地であまりなくなっていった。そんな背景から、井上酒造でも他県の酒米の利用率が増えていたが、近年は小田原の米を使った酒造りにシフトしているそう。しかも驚くことに、地元の耕作放棄地を田んぼに転用し、米を育てるところから取り組んでいるというのだ。

「飯米を原料に酒を造ると、お米の旨みや甘みが出やすい気がしますし、個性的な日本酒ができやすいんです」。こう語るのは、七代目会長の井上寛さん。
一方で、飯米でつくる酒は雑味が出やすいという難しさもある。
米にはでんぷんとタンパク質、脂質などが含まれている。でんぷんは酒の旨みや甘み、アルコールを生み出すが、タンパク質は旨みや苦味のもとになるため、適度に生かせば“個性”、うまくいかないと雑味として感じられてしまう。
酒米は中心にでんぷんが集まっているため、タンパク質や脂質を多く含む外側を削ることで、雑味の少ないクリアな味わいに仕上げている。対して、飯米はでんぷん、タンパク質、脂質が全体的に広がっているため、これらを分けるのは難しい。
「そうですね。確かに飯米からお酒をつくるというのは難しいことです。しかしながら、低温でゆっくりと発酵させることで、雑味の成分が生まれにくくすることができます。我々作り手の腕の見せ所でもありますし、近年は低温で一定に保てるように新たに設備をいれたので、飯米の良さを生かしながらも清らかなお酒を安定して作れるようになりました」と杜氏の内山裕義さんは胸を張る。

日本では珍しい中硬水を生かす
酒蔵の敷地内にある井戸からは、清らかな水がとうとうと流れている。これは、富士山東麓を源に足柄平野を潤す酒匂川水系の伏流水。全国的にも珍しいミネラル豊富な中硬水だ。
日本では軟水がよく湧くことから、これを使ったまろやかですっきりとした酒を造る酒蔵が多いが、井上酒造ではこの中硬水を仕込み水として使用している。ミネラルが多い水は酒の発酵が進みやすく、深みのあるきりっとした味わいに仕上がるのだそう。

内山裕義さんは、「ミネラルが多いので発酵が旺盛になります。発酵のぶつぶつとした音が聞こえるでしょ? 軟水でお酒を造っている方がいらっしゃると『びっくりするほど個性がでるね』とおっしゃるんですが、ミネラルのおかげなんでしょうね」という。
個性のバランスの見極めも重要だ。「最初はすごく甘い状態なんですけど、だんだん辛くなっていく。アルコール度数と日本酒度のバランスを見て、『この味だな』というところで絞ります。中硬水で仕込む酒は酸味が出やすいので日本酒度が少しマイナスくらいで止めるんです。すると甘みの裏に旨みがあって、でも甘く感じないというバランスになります」(内山さん)。

伝統を守りつつ新たな酒造りに果敢に挑戦
こうして、地元の米と地元の水で造られる酒の代表作が「海と大地」だ。井上酒造から車で10分ほどのところにある鈴廣かまぼこの工場からでる魚の皮や骨を使った特製魚肥で育てた飯米「キヌヒカリ」が原料となっている。「海と大地」をひと口含むと、米のふくよかな香りと旨味が際立つ。存在感があるのに清らかで、軽い口当たりですーっと飲めてしまう。
このほか、現在の代表銘柄である「箱根山」は、1967年(昭和42年)にヨーロッパへの輸出向けに誕生したもの。精米歩合50%の純米吟醸は、バナナやメロンのような吟醸香と、優しい酸味となめらかな味わいが特徴だ。

つくり手の思いを肌で感じる酒蔵見学
井上酒造を訪れたらぜひ参加したいのが酒造見学だ。
製造工程や歴史についての説明を聞きながら、築100年あまりという土壁の藏を巡る。通年受け入れているが、おすすめは酒造りの様子を実際に見学できる11〜3月頃。仕込み中ならではの、発酵の香りや音を五感で感じて楽しみたい。
井戸から湧き出るフレッシュな伏流水を飲んでみるのも忘れずに。やや硬水なのにまろやかな味わいで、きっと普段飲んでいる水との違いが分かるはずだ。
見学の最後はお楽しみのテイスティングタイム。最高級の酒米「山田錦」を使った王道の日本酒から、小田原の飯米を使った酒、新しいタイプの日本酒など、さまざまな銘柄がずらりと並び、すべて試飲可能だ。それぞれの違いがはっきりしているので、好みを探しやすいのも嬉しい。

「50年酒を造っている人でも『まだ納得できる酒はできていない』って言うんです。そうだろうなって思うんです。日本は天候の変化が大きいので、米の質も、発酵の環境も毎年ちがいます。最後まで“見えない部分”が残っている。そこが酒造りの面白さですし、お客様とそんな自然の変化についても話しながら、お酒のさまざまな表情を楽しんでいただけたらなと思います」と内山さん。
つくり手の話と酒のマリアージュを楽しめるのは酒蔵見学ならでは。酒についてだけでなく、ものづくりに対する姿勢や挑戦にまつわる話なども興味深いので、気になることは遠慮なく聞いてみよう。
里山に身を置きながら、その豊かな自然が生み出す米と水からできた上質な日本酒を一献――。舌も心も喜ぶ贅沢な体験をしに、ぜひ井上酒造を訪れてみてほしい。










