魚肉たんぱく同盟コラムVol.41
「1年でも長くサッカーを続けたい」 サッカーをこよなく愛する大竹洋平選手の「生き方」とシンガポールでの食生活を探る
2025.04.18

FC東京アカデミー時代から輝かしい成績を残し、高校卒業後プロ入りを果たした大竹洋平選手。プロ1年目では新人ながら公式戦で活躍を果たし、幸先の良いスタートを切りました。FC東京では5年間プレーをしたものの、その後怪我などに悩まされ、5度の移籍を経験。大竹選手が苦しい経験を乗り越えて実感したことは、日々の体のケアを怠ってはいけないことだと語る。今回は、大竹選手のキャリアを振り返りながら、アスリートとして活躍し続けるための取り組みとシンガポールでの食生活についてお話いただきました。
大竹洋平選手プロフィール
1989年生まれ。埼玉県八潮市出身。中学生の頃からFC 東京のアカデミーに所属し、高校卒業と同時にプロ入りを果たす。幾度かの大きな怪我に悩まされながらも、5度の移籍を繰り返し、昨年度からシンガポールプレミアリーグ・アルビレックス新潟シンガポールに所属している。現在は、現役を続けながら現地でサッカーの魅力を発信している。
――まず初めに、サッカーを始めたきっかけを教えてください。
きっかけは、親が幼稚園のクラブに何か入れたいと思っていたところ、「何やりたい?」と聞いた際に自分が「サッカーをやりたい」と言ったらしく、年少の頃に幼稚園のサッカークラブに入って、サッカーを始めました。
――その後若くしてFC東京のアカデミーに所属されましたが、自分の中でプロになりたいと思った時期やきっかけはいつですか。
小学校5-6年生の頃に教えてくれていたコーチがよく海外のサッカーを見せてくれた機会があり、その頃からプロサッカー選手になりたいと思うようになりましたね。
――ジュニアユースに入ったきっかけを教えてください。
埼玉の八潮でサッカーをしていたのですが、たまたま日本サッカー協会が主催する「関東ナショナルトレーニングセンター制度」に参加する機会があったんです。ちょうどその時のスカウトの現在東京ヴェルディの監督をしている城福さんという方が、僕が小学生の時に参加したトレセンを見に来てくれていて。その時にお話をいただいて初めて、FC東京というクラブを知りました。あまりJリーグを見てなかったのでわからなかったのですが、練習参加をして入団を決意しました。
――振り返ってみると、FC東京のアカデミー時代はどのような時間を過ごしましたか。
絶対にプロになるという思いでがむしゃらに中学3年間と高校3年間過ごしていましたね。
チームメイトも僕含めて3人プロにあがったのですが、それ以外にも大学卒業して4人くらいプロになっていたので、その当時からレベルの高い環境でプレーができていました。レベルの高い環境でプレーできたことがきっかけで成長できたのかなと。
――トップへの昇格はどのようなタイミングでオファーがあったのか、また決まった時はどのような心境でしたか。
昇格が決まったのは、高校3年生の夏のクラブユースが終わってからでしたね。その当時の監督に呼ばれて昇格が決まったと伝えられました。それまではプロになりたいけれど、実力的に本当になれるのかどうかわからない状況で。クラブユースもその時グループリーグで敗退してしまったんです。結果も出せなくて本当にプロになれるのかな、と思っていた時に昇格が決まったので、すごく嬉しかったですね。
――FC東京のトップに昇格してから、初年度から多くの試合にも出場されていたと思いますが、実際にJリーグデビューを果たしてからこれまでとの違いを感じたことはありますか。
その時はよく海外のサッカーを見ていて、18歳で活躍している選手もたくさんいたので、自分の中で18歳でも試合に出場することが当たり前だと思っていました。その意識でプレーできていたのもあるし、当時監督の城福さんのサッカーが、自分のプレースタイルとすごく合っていたというか。試合に使ってもらってある程度結果も残すことができたので、特に1年目はすごく自信をつけることができたと思います。特に印象に残っている試合は、初ゴールを決めた「クラシコ ホームの川崎フロンターレ戦」がやはり印象に残っていますね。最終的には4-2で勝ったのですが、勝ち越しゴールとさらに追加点のアシストをすることができて。そこで初めてゴールを決めて結果を出すことができたので、今でも鮮明に覚えていますね。
――アカデミーからトップに昇格してからプロになって、在籍も長かったと思いますが、FC 東京への想いや大竹選手自身が感じている部分はありますか。
自分が小さい頃から育ててもらったクラブですし、プロデビューしてから5年間ずっとプレーしていたクラブなのでもちろん思い入れはあって。最終的には移籍しましたが、FC 東京で活躍したいという思いでプレーをしています。しかし、そこは自分の力不足で叶わなかったので悔しい思いが強いですね。
――FC東京から湘南ベルマーレに移籍した時の状況や理由を教えてください。
湘南ベルマーレに移籍して、当時監督の曺貴裁さんからお話をいただいて。ある程度試合に使ってもらっていたので、自分でも手応えがあったんです。そんな矢先に逆足の前十字靭帯を切ってしまったんです。怪我をしたタイミングで、FC 東京に戻るか、湘南ベルマーレに完全移籍するかの2択で迷いました。自分の実力的にFC東京に戻るよりも、湘南ベルマーレで曺さんのサッカーをやりたいという気持ちもあったので、自分が成長することができる湘南ベルマーレに完全に移籍することを決めました。
――最終的に湘南ベルマーレに完全移籍してから、どのような時間を過ごしましたか。
湘南ベルマーレでの3年半はすごく良い時間でしたね。曺さんのサッカーはすごく魅力的だったので。自分の今までのサッカーのプレースタイルとはまた違う感覚を経験できたし、自分にとって成長できた3年半だったと思います。常に前を意識するサッカーだったので、チームメイトからも前を意識するからパスも来るし、プレーしていて楽しかったです。多くパスが来る中で、自分がタメを作って走りながら周りを活かすプレーをすることができていたので、やりがいがあって充実した時間を過ごしましたね。
――その後、ファジアーノ岡山への移籍はどういった移籍だったのでしょうか。
湘南ベルマーレ時代の最後の1年がなかなか試合に絡むことができなかったんです。当時ファジアーノ岡山の監督が長澤徹さんという方で、僕がFC東京に所属している時にヘッドコーチをされていたので、よく話す機会があったんです。結果的に長澤さんにファジアーノ岡山に呼んでいただいて、移籍しました。
――ファジアーノ岡山での2年間は振り返ってみると、いかがでしたか。
正直苦しい時間の方が多かったです。なかなかやろうとしているサッカーに自分がアジャストすることができなくて。試合も途中出場が多くて、結果も思うように出すことができず契約満了となってしまいました。でも、この2年間の経験がその後には生きてきているので無駄ではなかったかなと。
――その後の移籍先である、V・ファーレン長崎での5年間はいかがでしたか。
移籍してすぐに好きになりましたね。初めて訪れた九州という場所もそうですし、人や食事面も含めてすごく良いところだなと思いました。今まで住んだ場所の中で一番好きな場所と言っても過言ではないです(笑)今後も長崎で自分ができることはやりたいなと。
当時は、ここで長くプレーできたら幸せだろうなと思っていましたが、当時監督の手倉森監督が求めているサッカースタイルとフィットできず、最初の2年間は試合で使ってもらうことができなかったです。けれどこの苦しい経験を経て、最終的に充実した2年間になったと思います。
――昨年移籍した、アルビレックス新潟シンガポールついて詳しくお聞かせください。
ホームグラウンドの人工芝がまだ慣れていなくて(笑) 足首への負担が全然違うんです。最初はプレーできるか不安だったのですが、徐々に慣れてきてアジャストできるようになってきましたね。日本だったら、専属のドクターやトレーナーがいて当たり前にテーピングをやってもらっていましたが、シンガポールはトレーナーはいるけど、日本語が通じないので細かいニュアンスが通じない。どこを治していいのかもわからなくて、結局自分でYouTubeやネットで調べるようになりましたね。自分でできた方が自分の思うようにプレーできるなと思って、自分でテープも巻けるようにまでになりました。大変な環境ではありますが、自分で考えて色々できることが増えて、自分自身成長を感じています。日本だと環境がとても整っているので、自分でできなくても大丈夫な部分がありますけど、こっちにいると自分でやらなければいけないことが多いのでサッカー選手としてとても逞しくなりますね(笑)
――様々なキャリアを経て、自身の中でプレースタイルが変わったところはありますか。
そうですね、その監督によってやりたいことが違う、ということを実感しました。自分が試合に出るために「ここはもう少しこうした方がいいな」とか、監督のやりたいことを体現できるように自分の良さも出しつつ、少し変えながら考えてプレーするようになりました。
――これまでは怪我と向き合ってきたキャリアだと思いますが、今までの怪我について感じる部分はありますか。
怪我をした経験を経て、ケアの方法や栄養面も含めて自分の体について理解できている部分があるので、怪我をしたことは決して無駄ではなかったと思います。現在36歳ですが、この歳までプレーすることができているのも過去の経験があったからなのかなと。
――さて、ここからは食事面の話に移りたいと思います。現在、シンガポールでの食生活はどのように工夫されていますか。
昼は近くの団地の中にあるフードコートで食事をしています。夜はスーパーで食材を買って、自分で調理をするようにしています。自炊するのは鶏肉が中心のメニューが多いですね。野菜も摂取するようにしています。毎日違う料理を食べる、とかではなくて基本的に揃えている食材も全部一緒で。この食材がなくなったら買う、という決まりが自分の中であります(笑)
最近はスーパーで豚のミンチが冷凍で売っていることが多いので、よく食べています。日本にいた時は、基本魚を食べていたんですよ。長崎って、魚が安くて美味しいので。シンガポールにいるとなかなか魚を食べる機会が少なくて。調理することはできないし、あまり売っていないので、やはり鶏肉を使った料理がメインになりがちですね。それでもやっぱり魚を食べたくなるので、週に1回スーパーでお寿司を買っています。日本産のお寿司が売っていてすごく美味しいんですよ。
――食への意識が高まったタイミングはありますか。
湘南ベルマーレに所属していた最後の年は、怪我が多かったので栄養士の方を専属でつけて、食事に意識を向けるようにしましたね。魚を多く摂取するようにして、バランスよく食事を摂ることを考えるようになりました。
――現在のジュニアの子や、若い子たちに栄養面で何かアドバイスしたいことはありますか。
昔の自分は知識も少なく、自分の体がどの状態が一番いいのかあまり理解できていなかったんです。もう少し理解しておけば、もっと自分の良さを出すことができたのではないかなと思いますね。なので今は昔より情報が多い時代になってきていて、何を食べれば良いとかどのタイミングで食べたら良いとか当たり前に情報が入ってくると思うので、その情報をうまく活用していけば良いのではないかと思います。昔はそういう情報もなかったので練習終わってから、ジャンキーなものを食べていたので(笑)
――大竹選手自身、普段はどのようにタンパク質を摂取していますか。
日本にいた時は魚をメインに摂取していましたが、現在は昼と夜どちらとも、基本肉を食べてタンパク質を摂取することが多いですね。タンパク質だけを意識するというよりかは、タンパク質を含め、炭水化物と野菜をバランスよく摂取することを意識しています。肉より魚の方がアスリートにとって体に良い、という話を聞いたので日本にいた時は、魚をメインに摂取していましたね。実際に魚を中心に摂取するようになってから体の調子も良くなった実感もあります。湘南ベルマーレ時代は、鈴廣かまぼこさんがスポンサーだったので、“サカナのちから”をよくいただいていて、毎日食べていましたね。その効果もあってか、魚の栄養が摂れていたと思います。
――ピッチ外で普段何か意識して取り組んでいることはありますか。
シンガポールの公用語である英語を空き時間に勉強しています。あとは、将来現役を引退してから自分は何ができるのか考えながら過ごすようにしていますね。でも、結局サッカー選手以外にやりたいことって多分見つかんないと思うんです(笑)
なので、サッカーのキャリアをいかに長く続けていくためには、日々の体のケアを怠ってはいけないと実感しています。それには理由があって、自分の体の状態が良ければまだまだプレーできる自信があるんです。けど、少しでも不調だとなかなか自分の良さを出すことができないことが多くて。なので、歳を重ねていくにつれて、より体のケアを念入りに行うようにしていますね。あとは、今自分ができることのスキルを磨くことを心がけています。例えば、サッカーでいうと監督が求めていることは何なのかを考えて、自分ができることを精一杯悔いなくやることが今後のキャリアに繋がってくるのではないかと思いますね。チームが自分に求めていることは何か考えて、遂行できるように意識しています。海外に移籍してより意識的に考えるようになりましたね。いかにチームを勝たせることができるのか、今まではなかなか考えることがなかったのですが、どういう働きかけをしたらチームが良くなるか意識するようになりました。キャプテンを任せられる試合も増えてきて、少しでもチームがいい方向にいけるようにどうするべきなのか、試行錯誤しています。
――大竹選手の今後の展望と目標をお聞かせください。
サッカーを職業にできていることはとても幸せなことなので、1年でも長く続けることが一番理想の形かなと思っています。どれだけ頑張ってもいつか終わりが来てしまうことがあると思うので、その時のために今は自分ができることを精一杯やりたいなと思います。