小田原にんげん紀行

名物獣医師
中山和也さん (55歳)

文・小林伸男

 神奈川県中郡大磯町西小磯にある中山獣医科医院の看板は、海へ 向かう通りに面した壁に動物のイラストで描かれ、その真ん中に どうぶつびょういん」と書かれているだけである。

 診察室のドアを開けると、入り口のところに電線で羽を傷めたコ ミミズクがおり、奥まった場所に置かれた大きな檻の中には怪我を した鳩が二十羽あまり、おなじく伝書鳩が約十羽、他にムクドリ、 タヌキなどが診察を待っている。

 ここの獣医さんは、もちろん一般家庭のペットも診察するが、そ れ以外に飼い主のいない野生動物の怪我や病気を治し自然に帰すこ とを生きがいの一つにしておられる。治療しても自然に帰すことが できない野生動物は、地域に組織された里親に預け、面倒をみても らう。

 ロフティングの『ドリトル先生』がそのまま現代に現れたような この獣医師が中山和也さんである。

 中肉中背のがっちりした体格の持ち主で、少々腹のあたりが出て いるのは五十五歳という年のせいで仕方がない。いかつい顔の額に 刻まれた深い皺をぐぐっと曲げて、眼鏡の奥の大きな目玉で見つめ られたときは、思わずなんて怖そうな先生だろうと思ったけれど、 ウグイスのようなきれいな声で話しかけられ、問診を受けているう ちに人間たちがよくいうように「容姿や外見だけで人を判断しては いけない」といっている意味がよくわかったね・・・・これが動物たち のもっぱらの評判である。
鳥たちの訴えを熱
心に聞く

 この先生が診察しながらいう言葉を聞けば、最初になぜ怖い顔を して見せたのかよくわかるぜ、と羽を傷めてかつぎ込まれたコミミ ズクはいった。

 なるほど、今様ドリトル先生は今日もひとりでぶつぶつ文句をい いながら診察費の稼げない野生動物を無我夢中で治療しているでは ないか。何をいっているのか、ともあれ耳を澄まして聞くことにし よう。

「先に野生動物が棲み、野生動物が生えている自然を、後から来た 人間どもが勝手に住みやすく造り変えて、挙句のはてに自分たちが 苦しんでいる。動物たちが棲めないような世の中は人間も住めない ということが少しもわかっておらん」

 なるほど先生は自分さえよければというわれわれに対する人間ど もの勝手な仕打ちを怒っておられるのだ。


『中山獣医科医院の看板』

金時山の霧に舞うアサギマダラの美しさに魅せられて

 中山和也さんのプロフィ―ルは次の通りである。

 昭和一六年小田原市緑町に生まれる。城内小学校、小田原第一中 学校、小田原高校を経て昭和三八年日本獣医畜産大学獣医学部卒業。 昭和四一年大磯に中山獣医科医院開業。社団法人神奈川県獣医師会 理事・中央支部支部長、環境庁自然公園指導員、財団法人日本自然 保護協会観察指導員、日本高山植物保護協会会員、日本赤十字救急 員。
小田原高校3
年生当時

 中山さんを自然保護運動に向かわせるきっかけとなったのが、ア サギマダラという蝶との出会いであった。

 城内小学校四年生のときのことである。家族と一緒に金時山に登 った中山さんは、気流に乗って霧の中を優雅に舞う蝶を見て心を奪 われた。翅を広げた長さは約二〇センチ、淡い水色の斑紋が美しい。 それがアサギマダラという蝶であるということは、小田原高校の生 物部員たちが小学生を相手に部費稼ぎに開く昆虫採集の指導会で教 わっていたし、子供ながら小田原生物同好会の会員となっていたこ ともあり、昆虫図鑑で見て知っていた。

 しかし、動かぬ絵や標本で見るのとは違い、霧のかかる金時山の 自然の中で躍動する姿は、少年中山和也の心に生涯忘れられぬ印象 を強く焼きつけた。

 中山さんはいう。

「野生の動植物は自然の中にそのまま置いて見る姿がいちばん美し いということを、理屈でなく現実の体験でそれを知った瞬間でし た。すぐに蝶はどこかへ飛び去ってしまいましたが、その美しさ と感動は消えてません」

 それが野生の動植物は自然のまま保護するという中山さんの信念 に血を通わせているわけである。

谷戸の自然が最高の教師だった

 小田原第一中学校へ進学した中山さんは生物部に籍を置き、小田 原高校のすぐ上にある八幡山でアゲハチョウの蝶道を調査したり、 市内の谷戸に出かけて自然観察を続けた。なかでも谷戸の自然はな にものにも変えがたい恰好の教師だった。尾根から滲み出た水が池 をつくり、小川となって流れ、それが大きな川となって相模湾に注 ぐ。
小田原高校生物部の仲間と
(昭和34年頃)

 春には田圃の畦にオオイヌフグリやタネツケバナ、ホトケノザ、 ヒメオドリコソウなどが咲き、冬眠から目覚めたヤマアカガエルが 卵を産み、雌鳥の鳴き声と間違えそうな独特の声で鳴き始める。ヤ マアカガエルの卵がかえる頃になるとそれを食べにヤマカガシが現 れる。枯れていた尾根の雑木の枝々が靄ったようになんとなく色づ いたかと思うと薄紅色に変わり、たちまち若葉が萌え出でる。

 梅雨どきにはゲンジボタルが幽玄の灯の舞を見せ、夏にはギンヤ ンマやオニヤンマが空中にホバ―リングしてあたりを睥睨する。そ うした自然のダイナミズムを背景に、中山さんも子供ごころに知恵 を身につけていった。たとえば垂涎の的であったギンヤンマをいか に効率よく捕まえるかというと、水色をした雄の腹を茶色に塗って 雌と思わせ雄をおびき寄せるなどの知恵である。学校の教室では絶 対に学べない知恵と興奮が谷戸にはみちみちていた。

 何の感動も伴わない、ただ憶えるだけのペ―パ―だけの学問がい かに空しいものであるか、サリン製造や銃器の密造に何らの歯止め をかけることができずに関わっていった一流大学出の青年科学者た ちが証明してくれたばかりである。

 本来の知識は体験に裏打ちされ、新たな好奇心にみち、胸がわく わくどきどきするような楽しさを伴ったものである。そこから突拍 子もない知恵やアイデアが生まれる。

 小田原高校生物部時代のことだ。

 中山さんは男声合唱団の一員として東京九段の関東甲信越大会に 神奈川県代表で参加した美声をもって応援団長をつとめる一方、市 内の小学生を相手に勉強会を開いた。やっているうちに、ただの勉 強会ではつまらないので何かやろうということになった。

 そこで思いついたのが、ダ―ウィン生誕百年を記念して南米ガラ パゴス諸島に調査隊員として出かけた教育大学の先生を招いて講演 会を開くことだった。それはいい、それ行けと開催にこぎ着けたが 予算がない。困った挙句に中山さんらは当時の鈴木十朗市長に泣き ついた。

「よし、それでは市が後援してやろう」

 理解ある市長の一声で小田原高校生物部員の思い付きが実現し、 市民会館のホ―ルは満員の聴衆で埋まった。

 大人の感覚ではアイデアはあっても先立つものがないために企画 倒れになることが多い。思い付きだけで突っ走れるところが若者の 強みであった。

 中山さんらが次に考えたのが、世界を相手に動植物の標本で交流 することだった。思い立つとすぐ中山さんらは行動を起こした。そ うすること自体がおもしろいので、結果をあれこれ考えないところ が強みであった。そういう好奇心の塊みたいな好き者ばかり揃って いた。

 外務省に働きかけて二十五カ国の領事館の一覧表を取り寄せ、手 分けして手紙を書いた。
『動物フェスティバル神奈川'95』
では、実行委員長をつとめた

 それに応えて南アフリカ連邦共和国から標本を送ったという返事 が届いたのは、中山さんが日本獣医畜産大学一年生のときである。

 後を追って届いた小包の中にはアフリカの珍しい蝶や蛾、植物な どの標本が約三十種。いずれも初めて見る虫や植物ばかりであった。

 ところが、その標本には税金がかかるという。

 中山さんらは生物部の先生に相談して免税の手続きを取ってもら いこのピンチを何とか切り抜けた。

 さて、このお返しをどうするか。南アから届いた標本にかかる税 金が払えなかったくらいだから金はない。ここでまた突拍子もない アイデアが閃いた。「近く南極観測隊が出発する。宗谷は途中、南 アのケ―プタウンに寄港するはずだから、それに頼もう」

 今、考えれば何をやっても楽しいときだった。それにふさわしい 仲間が大勢いた。そりゃあいい、早速頼もうという怖いもの知らず の集まりだった。

 手紙を出すと承知したの返事。中山さんらは後輩の小田原高生物 部員らと小田原・箱根地方の昆虫や植物の標本をまとめ、南極へ向 かう宗谷に託した。赤道を越え「標本が無事届いた」というメッセ ージが返ったのは昭和三十五年二月のことだった。

 中山さんらはケ―プタウンに入港し、盛大な歓迎を受ける南極観 測隊員の手で、晴れのパ―ティの席上、南ア側の政府高官に手渡さ れる標本を脳裏に描いて快哉を叫んだ。

小田原高校同窓会(平成7年)
高校時代は応援団長だった

撮るのはカメラ、残すのは足跡、自然はわれわれの宝

 われらが中山ドリトル先生は、そのときのまま大人になられたよ うなお方である。傷ついたコミミズクはわがことのように胸を張っ て誇らしげにいった。

 そのときの生物部員もそのまま大人になったような愉快で痛快な 仲間で、中山さんも彼らと箱根生物研究会を組織して家族ぐるみの 付き合いを続けている。

 箱根生物研究会の当初の目的は、箱根の植物研究の大先達松浦茂 寿先生の著書「箱根植物目録」に紹介された植物がはたして今も残 っているか、調査して確認することだった。

 調査を進めるうちに、ハコネコメツツジやムラサキツルガネツツ ジなど箱根の希少な植物が盗掘に遭い、絶滅の危機に瀕しているこ とがわかった。

 一度失った素晴らしい自然は二度と戻らない。この貴重な自然を 子供たち、孫たちのためにな残そうではないか。

 中山さんたちは急遽「中年探偵団」を結成し、箱根山中でパトロ ールを開始した。

 その武勇伝を逐一ここで紹介できないのが残念である。

 パトロ―ル区域は駒ヶ岳、二子山、金時山を中心に箱根全域に及 び、盗掘犯人を捕らえたことは数知れず、ときには盗掘されたハコ ネコメツツジを求めて長野県の諏訪まで出かけたこともある。

 せっかく犯人を捕まえて警察に引き渡しても、執行猶予付きの軽 い刑でしか罰せられず、彼らは悠々と外車を乗り回している。

 これではイタチゴッコだ。

 だが、パトロ―ルは続けなければならない。

 中山さんは思う。

「むかしの人は、山の木の実のいちばん高いところに成っているも  のは鳥のために残しておいた。自分は中間のものを取り、最後の  ものは旅人のためにあるのだという考えだった。このようにてっ  ぺんを残し、最後のものを残すちいうやさしさがあったら、人間  は自然と共存できるし、争いもなくなるだろう」

 これをいい変えたのが中山さんの乗用車のうしろに書かれた標語 である。

「撮るのはカメラ、残すのは足跡、自然はわれわれの宝」

 もう一度いう。

 野生の動物たちが安心して棲めないような世の中は人間も住めな い。そのような現実に直面したときそれに気づいたのでは手遅れだ。

 そうだ、そうだとコミミズクは涙を流してうなずいた。


中山先生は動物ばかりでなく
人間にも絶大な信頼がある


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