小田原にんげん紀行

絵本作家
竹井史郎さん (51歳)

文・小林伸男

 竹井史郎さんは幼児・小学生向けの絵本作家である。これ まで『やさしい工作』『はみがきだいすき』『えかきうた』な ど約百三十冊の絵本を出し、そのかたわら十九年にわたって 遊び塾を主宰してきた。 金太郎塾は竹井さんが十七 年前に南足柄市へ越してきてからつけた名で、毎週土曜日の午後、 箱根外輪山明神ヶ岳山麓に分譲されたグリーンヒル中部に位置する竹井さんの自宅がそのまま 遊びの場になる。

 塾生は小学校を卒業するまでの子どもに限り、十五人ないし二 十人が対象。ここへ来て子どもたちがやることを思いつくまま に挙げると、縄跳び、ねっ木、泥棒けいさつ、木登り、ターザ ン遊び、パチンコ、弓などなど。ここでいうパチンコはY字の木 の枝にゴムを張ってつくるほうの遊具である。このように工作 を兼ねた遊びも多い。

 季節によっては雪合戦やソリ遊びをしたり、蔓いちごや桑の 実、山栗などを採集してきてみんなで食べる。他に焚き火をし たり、遊びパンを焼いたり・・・・日によって遊びの組合せを変え、 楽しく過ごすことで「いまを生きる」ことの大切さを、理屈でなく体全体で知って貰おうと いうのである。

 絵本作家としての竹井さんが学ぶこともある。

 
こんなのどかな
田舎で育った

言葉では教えられないものを遊びで教える

 竹井さんは昭和二十一年十二月五日生まれの五十一歳。生 まれ故郷は岡山県苫田郡鏡野町、生家は雑貨屋を兼ねた酒屋 だった。鏡野は盆地にある城下町津山とは山を隔てた吉井川 上流沿いの町である。目の前を流れる川をどんづまりまで遡 ればウラニウムの発見で知られる人形峠に行き着く。

 頭上には常に太陽が輝き、周囲には春は若葉、秋には紅葉 の錦に彩られる山があり、目の前で透き通った川の流れがと うとうと音を奏でた。竹井さんは浅瀬で魚を獲り、淀みで泳 ぎ、山では蔓いちごや栗をもいで食べた。ちいさな感動の積 み重ねに熱中して夢中で生きた少年時代だった。無心に遊び、 ゆたかな自然の表情に触れているうちに、竹井さんに絵心が 育った。

 四人兄弟の長男であった竹井さんは、気がつくと岡山大学 教育学部へ進学し、教職を志していた。何になろうと無理に 考えて学校の先生を選んだというより、好きな絵を描きなが ら子どもたちに「いまを生きる」ことの喜びを伝えたかった ためだろう。

 岡山大学を卒業した竹井さんは、より良い先生になろうと して東京教育大学の大学院へ進むため東京へ出た。昭和三十 三年のことである。


きれいな長靴がすべてを
物語る少年時代
 大学紛争華やかなりしときだった──不運にもピケとバリ ケードに阻まれ、入試は行われなかった。すでに教員採用試 験は終わっている。しかも専攻した美術科で席を隣り合わせ た憲子夫人と学生結婚したばかりである。竹井さんはやむな く民間会社に就職するほかなくなった。どうせ就職するなら 教育関係の会社という考えで選んだのが、子ども向けの学習 図書を出版する学習研究社、略して学研である。

 竹井さんの教壇に立つ志は、まず生まれ育ったわが子に向 けられた。さいわいなことに編集長が学校の先生だった人で、 個人的に子どもたちに油絵を教えていた。

 「どうせなら他所の子も教えたらどうか」

 編集長に勧められ、竹井さんが始めたのが土曜、日曜の絵 画工作教室であった。,p>  絵を描く技法は教室で教えられる。しかし、描く対象に感 動し、それをイメージとしてふくらませる心は言葉では教え られない。絵を描くのに最も大切なものを教えることができ ないのである。

 言葉では教えられない大切なものを子どもたちにどうやっ て身につけさせるか。
金太郎熟で。いろいろな     行きつく問題はそこだった。
遊び道具をいのままに
つくる子どもたち

 めぐまれた自然の中で遊びに熱中した少年時代が、いかに 実り多いものかを知る竹井さんは、その答えを見出すのに時 間を必要としなかった。

 大学で教職課程を修めたが、出てきた答えは学問・知識か らではなく、遊びの世界で得た経験からだった。子どもの時 代の遊びの大切さは教育理論としても説かれている。たとえ ば子猫がじゃれるのは遊びであるが、獲物を捕らえるための 大切な学習であり、人間の子どもも遊びによって多くのこと を学習するということなど。それを省略して先へ進もうとし ても無理だということはわかっている。中学受験を小学四年 から本格的にした子は、中学に合格した途端に小学四年生の 精神構造にフィードバックしてしまうといわれている。学校 の勉強はできても心の面で置き去りにされた子どもは、子ど もの集団の中で置き去りにされ、人間的に屈折してしまう。 今日、子どもの犯罪で世間は大騒ぎしているが、原因の多く は知識教育に偏った歪んだ教育の結果であると学問的にはわ かっている。けれども、そんなことをしたり顔で評論して何 になろう。

 竹井さんの家はこのとき横浜市の戸塚区にあった。近くに は子どもたちが「つるつるお山」と呼ぶ小さな丘があり、遊 びに適した環境は整っていた。竹井さんは子どもたちが普通に 生きるには遊び塾しかないと思った。

 竹井さんは十年勤めた会社を三十二歳で辞め絵本作家とし て独立すると同時に、絵画教室だけでなく工作やさまざまな 遊びを織り込んだ「遊び塾」に打ち込んだ。

 

後戻りできない少年時代を少年らしく

 竹井さんが横浜を出て、南足柄へ来たのはそれからわずか 二年、都市化の波で周囲にほとんど自然がなくなったからで ある。ゆたかな自然は最高の教室であり、そこにこそ最良の 遊具が備わっているという竹井さんの信念が転居を決意させ た。
金太郎熟の子どもたち

 知人の紹介でグリーンヒルを見に来た竹井さんは、

 「ここだ」

 とその場で決めた。

 背後には雄大に裾を広げる箱根外輪山、その末端の丘の上か ら眺めると、酒匂川を一筋の光として緑の足柄平野が広がり、 その向こうには丹沢の山並みが聳え、曽我丘陵が横たわって いる。見上げれば抜けるように澄み切った青空──広大な空 間に光は躍り、風はそよぐ。竹井さんの心に少年時代の感動 が蘇った。

 「子どもたちよ、金太郎になれ」

 その願いを込め、竹井さんは「金太郎塾」と命名した。

 といっても、ここは山の中。金太郎塾を掲げても知る人は いない。上から小学校六年生、四年生、一年生になっていた わが子のためにぎりぎり間に合ったというだけだった。

 竹井さんが南足柄に建てた家は、もちろん、家族が住むた めの家であり、仕事部屋もある。これまでと違うのは金太郎 塾のスペースが屋内にもたっぷり設けられたことだ。板敷の 真ん中には囲炉裏が切られ、入ると炭の匂いがぷんと鼻を突 く。雨の日でも遊べるように土間の上に中二階がつくられ、 それを支える太い柱は木登りができるように丸木を用いてい る。

 竹井さんは仕事の合間に山を歩きまわり、少年の眼で遊び 場を探してまわった。この枝にロープをつければ、ちょうどよ いブランコになるだろう。木登りに手頃な木を見つけると枝 を払い、生い茂る草を刈り取った。ムササビの巣がどこにあ るか、リスが出没するのはどこか、いつどこへ行けば蔓イチ ゴがあり、山栗の木はここ──と、そうした準備を家族で進 めながら、竹井さん親子が真っ先に<いま>を生きた。

 そして、一番上の娘さんが中学に進学して間もなく家族以外の塾生として小学五年になった息子さ んの友達二、三人が来た。それが五、六人になり、塾生が定 員の二十人に達するまでにはかなりの期間を必要とした。け れども、本当によいものはいつかだれかが気づくものだ。そ こに身を置き眺めるだけでも十分な楽しみを与えてくれる自 然の中に、これでもか、これでもかと仕掛けられた遊びの場 ──子どもたちは着ているものが泥で汚れるのも忘れ、擦り 傷、かすり傷をつくりながら、歓声を挙げて夢中になって遊 んだ。金太郎塾には本物の少年時代が輝いていた。

 子どもたちと言葉でいえば一語だが、実際には一人ひとり 性格も異なれば、感受性にも違いがある。遊びにも、当然、 向き不向き、好き嫌い、上手下手が出る。けれども、熱中す ればそんなことはどうでもよくなる。下手な子に対しては上 手な子が教えるようになり、教わった子は上手くなって好き になる。上手な子は教えることの喜びを知る。こうした集団 の中で少年時代を少年らしく過ごすこと、それがいまを生き る喜びだろう。それが明日へとつながって行く。

 金太郎塾もすでに十七年──ここで少年時代の思い出を温 め合った子どもたちがどんな大人になるか。今の竹井さんに とって、それがもう一つの楽しみだという。


竹井さんとともに金太郎熟を
支える奥様の憲子さん

わが子といまを生きる喜び 

 竹井さんが金太郎塾を開いて真っ先に感じたのが、わが子 といまを生きる喜びだった。反面教師的な観点からいえば、 子どもに大人の価値観を押しつける愚かしさに気づいた。子 どもが大人の世界に一足飛びに駆け上がることは不可能だが、 大人は容易に少年時代へ帰ることができる。いつか通った道 だからだある。その順逆を取り違えて不可能を無理に可能に しようとすればどうなるか、その答えが当節家庭や学校が抱 える諸問題である。

 竹井さんは子どもたちの親ともわが子といまを生きる喜び を分かち合おう、金太郎塾に親も参加して欲しいと考えた。

 森の中で木登りをしたり、ターザンをしたりして駆けずり まわってお腹を空かせて帰る子どもたちを、憲子さんが汁粉 や遊びパンを用意して迎える。遊びパンというのは竹棒の先 にパン生地を巻きつけ、それをたき火の火であぶって焼くも ので、憲子さんはそのために前日から準備にかかる。

 食べることは子どもの最大の楽しみでもある。自分で焼い て食べればなお美味しい。親子で焼けばなおさら美味しい。 喜びに瞳を輝かせるわが子の顔を見て、親たちもわが子と遊 ぶ喜びを発見し、子どもの遊びに加わっていった。

 「わあ、トドが跳んでる」

 「地響きがする」

 縄跳びに参加してきた親を子どもたちは、嬉しそ うに冷やかしながら歓迎した。

 大人になれば少年時代は終わる。けれども、どん なに大人らしい大人でも、親になればわが子を通じ てもう一度少年時代に帰らなければならなくなる。 世の親たちがそのことに気づかず、子どもたちを変 にいじくりまわしたり、放ったらかしにしたら、ま ぎれもなく親子の世代は断絶する。今日、子どもた ちを取り巻く不幸な環境は、少年時代を忘れた親た ちがつくったものである。

 金太郎塾の定員は二十人、ここに理想とする少年 時代と親子の交わりがあったとしても、世の中全体 を変えるまでには至るまい。けれども、世の中の一 隅を照らしておけば、間違いなくそこだけは変わる。 そこから先は竹井さんの問題ではなく、世の中の問 題なのである。


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