小田原にんげん紀行
中野 正夫さん (65歳)
文・小林伸男
幾百年を鐘は鳴る
純然と時を報じるための鐘が三百年もの昔から、ずうっと
現在まで鳴らされているということは、全国にもあまり例の
ないことだという。
毎朝毎夕六時きっかりに、市内寿町から鐘を撞きに来る人
がいる。中野正
通称「ゴンさん」・・・・。
中野さんの名前がわからないことから、裁判所の職員の人
たちが鐘の音から取ってつけた呼び名だ。
「ゴンさん遅いな、今日は間に合うのかな、そう思っている
とちゃんと鳴るんだよなあ」
鐘の音を聞くと、皆そういってほっとする。
小田原市本町の簡易裁判所の前に「時の鐘」がある。
江戸時代から受け継がれた城下町小田原を象徴する伝統の
鐘である。大正時代には鐘撞堂の下に年老いた夫婦が住み、
昼夜の隔てなく鐘を撞いて時を知らせていた。今では朝と夕
の六時、一日二度だけになってしまったが、鐘そのものは打
ち続けられ、江戸時代から連綿として時を告げている。
小田原市民功労賞受賞の 夫さんという、六十五歳になる現役の大工さんである。
パーティーで。小澤市長と一緒に
「そうかね、中野さんというのかね、私は金子というんだけ れども」
こうして名乗り合い、親しく言葉を交わす仲間も増え、人 の輪が広がってゆく。
裁判所の入口に楠の大木がある。夕方には数百派、数千羽 の雀が寄ってくる。壮観な眺めだ。そして厳寒の夜空には満 天の星が輝く。自然がもたらしてくれるこうした景観にも、 中野さんは心を打たれるという。
の一方で、中野正夫さんはTBS「お天気くじら」の地 域通信員を引き受け、短歌・俳句で季節を紹介する。
それも経験・・・・。
これも経験・・・・。
中野さんが24歳の時、新潟の家で
母(写真・左)、父(右)と一緒に
幼な心に焼き付く棟梁送り、それも伝統、時鐘も伝統
中野さんは今から六十五年前、新潟県長岡市の大工の棟梁 の家に生まれた。
小学校二年生の頃から貸本屋に入りびたり、小説は『大菩 薩峠』といった時代ものから志賀直哉、田山花袋、芥川竜之 介の一連の文学作品、漫画は『矢車剣之助』『赤胴鈴之助』な どなど。千を越す本を片端から読み、文学青年ならぬ文学小 僧として幼い日々を送った。
「たかが大工が、そんずら本を読んでどうするずら」 そういって父親があきれたほどに。
中野さんの父親は養子だった。農家の次男坊から中野家に 入り、養父の跡を継いで大工の棟梁になった。朴訥で、真面 目で、酒好きで、金の勘定などしない人だったという。
父親は養父から仕込まれたように、中野さんに仕事を教え た。教えたといっても、言葉で教えるのではない。習うより 慣れろである。
小さい頃から山へ木を選びに連れて行かれた。しかし、言 葉では何も教えてくれなかった。仕方なしに中野さんは、ど こに生えている、どのような木が家の柱に適しているか、山 の木に目印をつけてゆく父親の一挙手一投足に、目を凝らす ようにして憶えた。
「この木は見た目にはいいが、曲がるから柱にはできない」 父親から言葉で教えられたとしても、おそらく理解できな かったろう。棟梁という生きた手本がそばにいたからこそ、 わかるようになったのだと思う。
柱のほぞを彫るのも手だ。木を知っているから木目や硬軟 に合わせた彫り方ができる。間違っても木目に逆らって彫る ようなことはないし、木地の膨らみにより微妙な狂いを生じ させるようなこともない。
伐り倒した後も木は生きている。
このように木を知ることから始めるところが、都会の大 工にないところであろうか。
中野さんの場合、学校を出れば大工になることが、早くか ら運命づけられており、選択の余地はなかった。 ところで。
中野さんの幼な心に今も焼きついている出来事がある。 田舎の建前はなかなか派手だ。建前のとき、必ず行われる のが「棟梁送り」というしきたりであった。米三俵と酒と肴 をリヤカーに積み、父親がその上に乗り、職人に曳かせて帰 る。それに合わせて施主や親戚など二、三十人が空き樽をどんがらどんがら叩きながら、揃って家に集まって来る。 「おう、かかあ、今帰ったぞう」
賑やかに樽を叩く音を聞けば、父親が大声を出すまでもな くわかる。
茶の間から廊下、土間まであふれた一杯機嫌の人を、棟梁 送りの答礼としてあらためて棟梁が家で宴会を設け、もてな すのである。持ってきた酒と肴を出せばよいと思うのだが、 ところが、それをしない。
「そんなことしたら職人のメンツが立たない。貰ったもの には手をつけるな」
は手をつけるな」 だから、建前の日には、中野さんの母親である奥さんが、 朝のうちに仕出し屋に注文し、酒屋から清酒を取り寄せて用 意しておく。
が、酔うとしらふに倍して気前がよくなり、お祭り騒ぎの 好きな棟梁はそれだけでは済まなかった。
「おう、芸者を呼べ」
掛かる費用は大変だった。
中野さんの母親は、酔いのまわった父親の胴巻から建前の祝儀袋を取り出して くると、それに手持ちの財布の金を付け足して芸者の祝儀に包み直し、仕出し屋 や酒屋の支払いにまわした。
中野さんは、こうした棟梁送りに職人 の粋と華を感じ、父親にあこがれた。今日のようなローンの ない時代では、家を建てるということは一生に一度のことだ った。棟梁送りはそれを喜び祝う祭りである。今、思い出し ても古きよき時代であったと思う。
ところが・・・・。
時には奥さんも鐘
を撞く
中野さんが棟梁になる前に、戦争を境にして世の中が様変 わりした。何が変わったといって、家が商品になってしまっ たことぐらい驚くことはない。安かろう悪かろう・・・・よく売 れる家を造るために機械化が進んだ。道具より機械を重宝す るようになれば気質も変わる。世の中は棟梁送りどころでな くなった。
「オヤジよう、頭切り替えろよう。今じゃ施主に頼んで金一 封出して貰ってよ、車で帰って貰う時代なんだ」
「それじゃあ、俺は棟梁なんぞやらねえ」
中野さんは、小さいときから、何事も面白くしてゆかない と気が済まない性分だった。だからこそ、古きよき時代ばか りを懐古し、わが身を置く時代をけなすようなことをしてい ては、何事もはじまらないと思う。
「変わってゆく時代に追いつくことはできねえまでも、せめ て物事を見て興味を覚えるような感覚、そいつだけは失いた くねえと思ってね。死ぬまで見たり、聞いたり、興味を 持ったことに神経を集中して、それを経験にする。俺 は最後まで知りたがり屋で通して成仏するつもりだ」
中野さんは長岡を出てから都会の建築現場を渡り歩きながら、相変わらず本
を読み、短歌や俳句を学んだ。いわゆる文人大工である。そ
して、小田原に腰を据え、息子さんが跡を継ぐようになると、
生まれ変わったように木簡短冊づくりに打ち込み、そこに新
境地を見出した。
満天の星空に向かって時鐘を撞く
何代か続けて前から撞いてきた人が亡くなり、後継者がい なくて困っている・・・・という記事を、中野さんは新聞紙上で 幾度か見かけた。
中野さんの脳裏に幼い頃の思い出が蘇った。
鐘といえばお寺、田舎では寺といえば子どもの遊び場だっ
た。今日のようにテレビがあるわけでなし、野では戦争ごっ
こ、川ではザルで魚をすくい、遊びが果てると、お
木簡短冊づくりに 寺へ行っては鐘を叩いて坊さんに怒られ、逃げ走った。
打ち込む
その鐘がいつの間にかなくなった。鐘楼には「お鐘は出征 しました」という札が空しく風に揺れていた。
小田原の「時の鐘」も出征したまま帰らなかった。今日の 鐘は帰らぬままとなっていた先代の鐘に代わり、昭和二十八 年に新しく造り直されたものだ。
棟梁送りも廃れた。今度は撞く人が亡くなり、時鐘の音が 消えようとしている。新しい世の中を受け容れ、添うように 生きてきた中野さんだが、そうそう伝統が失われていってたまるか、むらむらと胸に こみ上げるものを感じた。
中野さんは名乗りを挙げた。
「俺は他所者なんだけど、いいかね」
「ぜひ、お願いします」
市役所の担当者は二つ返事で答えた。昭 和五十九年の暮れのことである。
まもなく大晦日を迎えた。市内から、市外から、除夜の鐘 を撞くために、黒山のように続々と人が集まって来た。
こんなにも大勢の人に親しまれているのか。それじゃあ、 身を入れてやらなきゃいけねえ。
中野さんが、正式に鐘撞きの役目を引き受けたのは、昭和 六十年元旦のことである。
以来十三年・・・・。
しかし、この役目は一人ではできない。生身の体だから具 合の悪いときもあれば、仕事で時間に帰ってこれないときも ある。そいうときには、奥さんなり、息子さん、娘さんに 代わってもらう。家族もまた「やらなきゃ」という気持ちに なったから出来たことだ。
朝、鐘を撞いてから現場へ出て行くと、
「この寒いのにオヤジよう、よくやるなあ、もうやってきた のかよ」
大工仲間が冷やかす。
「いや、これやらねえとな、俺はどうも今日生まれたという 感じがしねえんだ。朝に誕生、夕べに成仏の心境だよ」 「なんだ?・・・・おめえ、何宗教だよ」
「宗教は不明だがよ。朝、無事に目をさましたから、もうこ れで成仏していいと思ってるけんど、夜になると今日も無事に 終えたなあ、明日もまた鐘が撞けるかなあ、そんなことを考え てる」
「なに坊さんみていなこといっ てんだよ」
「そりゃあ、おめえ、鐘を撞く のが俺の仕事だもの」
孔子の言葉ではないが、いまだ生を知らず、いずくんぞ死を 知らん・・・・生きている限り何でも知っていたほうがよい、その ためには鐘撞きでも何でもやってやろう、この心境だと中野さ んは笑う。
朝は朝星、夜は夜星・・・・鐘を 撞きながら、そういうものに目 がゆき、季節の風を感じられる この嬉しさ。
鐘を撞く前、体操をしてから
必ず手を合わせる