小田原にんげん紀行
子どもと生活文化協会(CLCA)会長
飯田 和さん (72歳)
文・小林伸男
飯田和さんの住まいは、小田原市十字四丁目にある。戦後
間もなく教師として奉職したことのある城南中学校裏手の高
台である。背後は後北条氏時代に築かれた小田原城小峰の大
堀切で、反対側には相模湾や箱根山、富士山を望む眺めのよ
い場所だ。中村原にも生家を持っているが、夫人と二人で住
む十字の家を終の棲家に決めたと飯田さんはいう。
昭和二十年に早川小学校の教員となってから昭和六十年城
山中学校の校長で定年を迎えた飯田さんは、その後すぐに小
田原市教育研究所の所長をつとめ、昭和六十三年に至って退
官している。
ここの獣医さんは、もちろん一般家庭のペットも診察するが、そ
れ以外に飼い主のいない野生動物の怪我や病気を治し自然に帰すこ
とを生きがいの一つにしておられる。治療しても自然に帰すことが
できない野生動物は、地域に組織された里親に預け、面倒をみても
らう。
飯田さんは大正十三年六月二十一日、小田原市中村原の農
家に長男として生まれた。父陽三郎氏は平均的な父親であっ
たが、母親のコユウさんは厳格でいて、それでいながら心の
優しい人だった。
コユウさんは飯田さんが育って読み書きができるようにな
ると、教育勅語を暗誦させた。その頃、コユウさんは頭痛持
ちで横になることが多く、飯田さんに頭を指で押させながら
暗誦させるのである。
「 思フニ・・・・」
飯田さんが指圧しながら暗誦を始めると気持ちよくなって
コユウさんはうとうとしはじめる。これをさいわいと飯田さ
んがそらを使ってやめると、コユウさんはすぐに目をあけて
にらみ、
「なぜやめる、その先をいいなさい」
最後まで暗誦させたという。
ほかに国語の教科書も暗誦させられた。その
おかげで飯田さんは下中村では小学校一年から
六年生まで成績はずっと一番で通した。
ところが旧制小田原中学(現在の小田原高校)
へ進学したとたんに飯田さんの成績は二百人中
百一番目に落ちてしまった。家へ帰った飯田さ
んは恐る恐るコユウさんの前に出て通知票を差
し出した。
それを見てコユウさんはいった。
「かのう、なあ、下中の小学校では一学級しか
なかったから一番だったかも知んないけれども、小田中に
は頭のいい子がたくさん集まるんだよ。おかあさんは決して
いい成績とは思わないけれども、こんなことで落胆するな」
怒られると思ってびくびくしていた飯田さんは、これで
奮起して大幅に成績を上げた。基本をきちんと教えて、と
にかくやる気を起こさせるという飯田さんの指導方針はコ
ユウさんに見習ったものだ。飯田さんは教育者の目で見て、このときの母親の指導は百点
満点でも百五十点だったと評価している。
その後の歩みは次の通りである。
昭和六十一年 不登校児・生徒のための現・指導学級を創設
平成元年 小田原の植物研究会創設・専任顧問
平成四年 子どもと生活文化協会(CLCA)共同設立
このほか日本シダの会会員、小田原市文化財保護委員、小
田原市明るい選挙推進委員などをつとめる。小田原市社会教
育委員、小田原市図書館協議会委員は今年の八月で辞任、後
進に道を譲った。
14歳のころ、ご家族と一緒に。
後列右から3番目が飯田さん。
前列一番右がコユウさん
コユウさんは草花が好きであった。 畑仕事をしながら、庭に千鳥草、浦島草、百日草、カイザ イク、コスモス、ダリアなどを育て、四季花を絶やしたこと がなかった。
飯田さんはこのような母親の背中を見て育った。 旧制小田原中学から神奈川師範へ進み教職へ身を投じたの もコユウさんの影響であり、その他の活動にも多かれ少なか れ触発されたものがある。飯田さんは母親が人生最大の師で あったという。
悪い奴だ、五年間掃除をしに来い
旧制小田原中学生時代のことだった。飯田さんは博物学教
室の掃除当番に当てられた。真面目に掃除をすればよかった
のだが、友達とふざけて箒でチャンバラをしていて、よりに
よって博物学教室で一番大切にしている肺魚の標本が入った
瓶を割ってしまったことがある。
魚はふつう鰓で呼吸するが、セラトダスの学名を持つ肺魚 は動物のように肺臓を持っている珍しい魚であった。しかも 博物学教室を受け持っているのは坊という姓のおっかない先 生だった。
現在ロサンゼルスで 「仕方がない。俺が謝りに行ってくる」恐る恐る教員室に謝りに行くと、
インテリアデザイナーとして 果たして坊先生は怖い顔をして博物学教室へ飛んで行き、
活躍中の娘さんと一緒に 現場の惨状を目にして飯田さんをはったと睨みつけた。
「悪い奴だ。五年間毎日ここへ掃除しに来い」 怖い先生だから逃れようもなく、やむなく飯田さんは次の 日から博物学教室へ掃除しに通った。そして、一年経ったあ る日、坊先生に声をかけられた。
「飯田、牧野先生という人を知っているか。日本で一番植物の ことに詳しい東京大学の先生だ。本を出されたから読んでみろ」 手渡されたのは北隆館というところから出た『日本植物図 鑑』という本で、厚さが七、八センチもあろうかという重た いものだった。開いてみると「はるののげし」の細密画が目 に飛び込んできた。飯田さんはコユウさんが育てていた草花を 探して次から次へ頁をめくっていった。いいなあ、いいなあ、 と思いながら・・・・。
飯田さんはその次の日から本を棚に置いておき、掃除が終 わると暗くなるまで貪るように読みふけり、坊先生が来ると 「これは何ですか、これは何?」と夢中になって質問を浴び せかけた。いつもは掃除を終えて三時二十五分の汽車で帰っ ていたのだが、牧野博士の『日本植物図鑑』の虜になり、坊 先生に食らいついて六時過ぎまで居残るようになった。こう して月日を重ねていくうちに、飯田さんはおっかないとばか り思っていた坊先生に限りなく親しみを感じるようになって いった。
さらに月日を経たある土曜日のこと、 「飯田、どうだ、明日はひまか」 坊先生が親しみを込めて声をかけてきた。
はい」 「あした箱根へ行くが、ついてこんか」 初めての本格的な植物観察への期待に飯田さんは心を踊ら せて「はい」と答えた。坊先生に個人的に誘われたこともう れしかった。
下中村から眺める箱根の山はおおらかで雄大であったが、 実際に足を踏み入れてみると、これまで目で見てきた以上に 広く、二度や三度で歩き切れるものではなかった。しかし、 飯田さんの目的は山を見ることではなかった。あるときは道 なき森の中へ、またあるときは沢筋をたどり、崖のように急 な岩場を登った。そして食い入るように野生植物を見つめ、 図鑑と首っ引きで観察をつづけた。
こうして小田原中学時代の五年間が夢のように過ぎ去って いった。
大勢の方に育てて頂いて
今日の私がある
飯田さんは五年間、博物学教室の掃除をやり遂げた。罰は罰 であったが、実に楽しく実りのある罰であった。厳しいけれど も、生徒に対する人間味のある坊先生の指導を肌で感じ取る ことができた。そのおかげで学名に飯田さんの名前を冠したア イカタイノデをはじめとしてトリアシシダやミサクボシダ、 ドウリョウイノデ、ハコネイノデ、ハタジュクイノデなど新 種のシダの発見者になれた。植物細密画の分野でも労作を多 く物にすることができた。そして、教職に就いてからも生徒 の自主性を重んじた指導を実践することができ、教壇を去る ときには、かつての教え子や関係者から惜しまれるだけの足 跡を記してきた。悔いなき半生であった。
飯田さんは思う。
今現在の時代に坊先生のような教育指導をしたらどうなる だろうか。年齢で生徒を輪切りにして画一的に知識を詰め込 むだけの教育現場では、まずこんなことをしようとする教師 はいないだろうし、やったとしても親が教育委員会に駆け込 んで行くだろう。鶏が先か卵が先かではないが、すっかり時 代が変わってしまった。これではいかん。世の中の一隅を照 らすだけでよい。子供たちの個性を生かせる教育をこれか らも続けよう。
かくして「子どもと生活文化協会」(CLCA)が生まれ た。その活動ぶりを飯田さんが会長のCLCAが企画・主催 した導了尊コンサートを例に挙げて紹介しよう
演奏会場は大雄山最乗寺本堂というユニークさ。これは山 主の余語翠巌老師がCLCAの顧問をつとめていることから 実現したもので、飯田さんたちの人間関係の質と幅が偲ばれ る。演奏家はバイオリンが漆原朝子さん、ピアノはベリー・ スナイダーさんという豪華な顔ぶれで、曲目はJ・S・バッ ハの「無伴奏パルティータ第一番ロ短調」のほか、ヨーロッ パで数多く受賞している作曲家細川俊夫さんの「ウインター・ バード」「バーティカル・タイム・スタディV」であった。 ここまでは、ちょっと気のきいた企画団体なら思いつくだ ろう。CLCAの企画はここから先が眼目である。飯田さん たちは子どもの個性を伸ばすには感受性のゆたかなうちに一 流の人物と触れ合う機会を持つことが大事だと考えてきた。 せっかく一流の会場を得て、一流の音楽家を招くことができ たのだから、なんとか子どもたちに親しく語り合うひととき と場所を提供しようと思って奔走した。それが同時開催の企 画として実現した「音と出会う生活体験合宿・細川俊夫さん、 漆原朝子さん、ベリー・スナイダーさんとともに」であった。 世界的な音楽家を招いて演奏会を開いたうえに、このような 生活体験合宿まで開くという試みは日本広しといえど 聞に して知らない。
CLCAがこれまでに招いた各界の人々は、ざっと名を拾 い上げただけでも京都の染織家伊豆蔵明彦氏、音楽家の和田 啓氏、松本泰子氏夫妻、建築家の今村有策氏、家村佳代子氏 夫妻、整体コンサルタントの竹居昌子氏、原始技術史研究所の関根秀樹氏、英文学者の外山滋 比古氏などなど、実に多彩な顔ぶれである。全国から二千人の参加者を丸太の森に集めた 「子ども・いのちとくらしのまつり」は三回目をかぞえるし、植物観察会、その他の催物も目 白押しだ。そして、それらにはみな飯田さんの情熱や信念が籠っている。
何が飯田さんをこうも駆り立てるのだろうか。 実は三年前、飯田さんは大腸癌の手術を受け た。さいわい手術は成功したが、死の淵をのぞ いて生還したことで飯田さんの覚悟は一段と据 わったのである。
「随分大勢の方に育てて頂いて今日の私がある。自分の持っ ているものは大したものではないが、生きている限り世の中 のお役に立ちたい。教育のこと、植物のこと、それらを吐き 出し終えたときが土に返るときだと思っている」 癌とも仲良く付き合いながら・・・・・・と、そういって飯田さん はにこと微笑んだ。
福島県いわき市にあるCLCAの
PASS研究所で子供たちに囲まれて