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菅沼 重雄さん
夫婦春秋三十五年―――
丹精の梅干が知事賞に再び輝く |

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| 昭和22年、小田原市曽我原に生まれる。下曽我小学校、千代中学校を経て昭和41年に吉田島農林高等学校卒業、以後、農業に専念。昭和46年に光江さんと結婚、2年後の昭和48年、みかん農家を梅干の生産に転換して今日に至る。平成6年、第1回小田原梅干コンクールで市長賞、平成7年には最高位の知事賞、平成16年に市長賞、平成18年には再び知事賞に輝く。 |
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ひとつひとつ丁寧に摘果していく
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この妻となら、この家でなら
昭和四十五年のある日、母方の伯父が重雄さんに持ちかけてきた。「農業はやりたいけど、酪農は嫌だといてる娘さんが平塚の吉沢にいるんだが、嫁に迎える気はねえか」
「酪農は嫌だというのは、どういうことだろう」ことだろう」
「愛情を籠めて育てた牛が売られていくとき、子牛がぴいぴい鳴く。せつなくてしようがない。嫁に行く農家ではそんな思いをしたくないというんだね」
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伯父が勧めたのが光江さんだった。会っていないうちから重雄さんの心は動いた。
昭和三十八年に襲った大寒波で被害を受けた菅沼家のみかんの木が次々に枯れ出した。わが子に死なれでもしたように涙を浮かべながら枯死した木を処分する父親の喜好さんを見て、菅沼重雄さんは心を痛めてきた。重雄さんの胸で喜好さんのその後ろ姿に光江さんの印象が重なった。
光江さんとなら梅をやっていけるんじゃないか……。
当時、みかん市場は投機的な性格を強く持っていた。終戦直後の食糧難の時代は暴騰して「みかん大尽」を数多く輩出したが、日本人の胃袋が求める作物の生産が回復するにつれて値が下がりつづけ、大寒波に息の根をとめられ、野菜などの栽培に転換する農家が続出した。
喜好さんは農協などの役員を務めた経験と知識からみかんの将来があまり芳しくないことを見通していた。だが、重雄さんがいくら説得しても頑として作付の転換に応じなかった。自分が手塩にかけて育てた木に対する愛情から、みかんを見限ることができなかったのだろう。 |
しかしながら、曽我は梅の里である。菅沼家は曽我城址の郭内にあって本丸跡に近い。城主曽我氏の歴代当主は扇谷上杉家の家老として西湘一円で重きをなした。南北朝時代に藤原氏の末裔大森氏が駿東か南足柄に進出して来て道了尊最乗寺を創建したとき、曽我の竺土庵にいた了庵慧明が開山上人として迎えられ、和歌と仏教の藤原文化を曽我氏伝えた。和歌といえば梅である。小田原梅干は北条早雲が創始したといわれるが、梅林は了庵慧明が藤原文化を曽我の地に根づかせるために育てたものだろう。当然、代替りを繰り返して当時の木は跡形もないが、土壌には何かが染みつているはずだ。土地の先祖が梅を残してくれた。
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梅林で草刈りの合間に。
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「親父、どうせなら誇りを持って梅を育てたい。伐るにしのびないからといってみかんを延命させても、いつかは伐るときがくる。今が決断のときじゃねえか」「理屈で答えが出せるなら、だれがこんなに悩むものか」
親子のやり取りはどこまでも平行線をたどった。
一方、伯父は平塚の吉沢に赴いて光江さんに菅沼家のようすを話し、梅干用の梅を夫婦で育てたいという重雄さんの気持ちを伝えた。

重雄さん、小学校一年生のころに家族揃って。 |
「親は反対しねえが、自分で接ぎ木して苗から育てたかんの木に愛着がある。重雄も親父の気持ちを理解しているが、どうせならいつかは終わるみかんを早いうちに見限って、梅の木に生涯愛情を注いで新しい歴史をつくりたいという。波乱は避けられねえだろうけど、なあに、それもいっときのことだ。あとはあんたたち夫婦次第だと思うが」
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夫婦とは重雄さんと光江さんのことだ。まだ見合いの段取りにも至っていないのに夫婦とは気の早い話だが、伯父の自信がいわせたのだろう。
「喜んでお見合いさせていただきます」
光江さんは重雄さんの伯父の言葉に抵抗なくきっぱりと答えた。
実家は酪農兼業の農家である。乳を出さなくなった母牛や生まれた子牛が雄だったりすると売られてしまう。牛は仲間意識が強くて馬喰が買いに来ると匂いでわかるのか、畜舎全体の牛が警戒して騒ぎ出す。売られる子牛は嫌がって車に乗ろうとしない。子牛を連れ去られた母牛がその姿を求めて一晩中悲しそうに鳴きつづける。光江さんは幼いときから牛たちの愁嘆場に立ち会うのがたまらなく嫌だった。みかんの木を伐りたくない喜好さんの思いも、悲しいことは早く済ませて伐る心配のない梅に生涯を託そうとする重雄さんの気持ちもよくわかった。波乱といっても利害損得で争うわけではないのだ。
見合いを経て祝言に漕ぎ着けた菅沼さん夫婦は断腸の思いでみかんの木を伐り、根を掘り起こし、汗と泥にまみれながら土からつくり直して梅の苗に植え変えていった。「なんで伐っちまうだよ。そんなにやることなかんべや」
喜好さんがかんかんになって怒った。
梅とみかんは同じ土壌に両立しないのだ。みかんの木を残したまま梅を育てるわけにはいかない。しかし、みかんの木に注ぐ喜好さんの愛情がわかるだけに、菅沼さん夫婦は道理を言葉で説く気にはなれなかった。
「黙ってちゃ話にならねえ。嫁のおまえはどうなんだ」
「お義父さん」
光江さんはきっとなって喜好さんを見つめ、目に涙を溜めて訴えた。「お気持ちはよくわかります。わかるんです。でも、いつ伐るときがくるか、はらはらしながら育てて、よいみかんが出来るでしょうか」
光江さんの耳の底には親と引き裂かれる子牛の悲鳴や子の姿を探して悲しむ母牛の鳴き声がこびりついていた。
「お願いです。伐ったみかんの分まで愛情を注ぎます。これから夫婦で生涯ずっと安心して育てられる梅に切り替えることを認めてください」
「おまえたちはグルか……」
喜好さんは思わず怒鳴ってから、て、ひたすら念じつづけた。
どんなに辛くても、ここを通らなければ夫婦の人生は始まらないのだ……。
菅沼さん夫婦は馬喰になった気持ちだった。このときの夫婦の辛い思いを正確に表現することはできないだろう。沈黙の一秒が一年に感じられた。やがて、喜好さんが決意したように顔を上げ、しみ
じみとした口ぶりでいった。「これからはおまえたちの時代だ。老兵は消え去るほかねえ。重雄、おまえ、いい嫁を迎えたなあ。梅の木よりも大事にしろよ」
「うっ」
光江さんは黙って頭を下げて座を立ち、玄開から外に出た。植え込みをまわり込むといきなり富士山が目の前に大きく迫った。西の空に溶岩円頂丘の矢倉岳を脇に抱
え込む感じで富士山が聳えていた。目からとめどなく涙があふれた。
菅沼家に嫁に来てよかった……。
背後から肩にそっと置かれた手のぬくもりを感じて光江さんが振り向くと、重雄さんがゆっくりとうなずいた。
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ひたすら丹精し、勘に磨きをかけて
それから三十五年、菅沼さん夫婦が丹精して育てた十郎梅はすくすく育って、粒揃いの実をつけつ
づけた。人間に害があるなら木にも悪かろうと考えて、除草剤は最初から使わなかった。除草剤を使うと土壌が堅くなってしまう。土壌のためにも養生にならない。夫婦で梅林の草を取りながらひとまわりして戻ると、もう別の草が生えて丈が伸び始めていた。また刈りにかかって、戻っては繰り返す。頂上に運んでは転げ落ちる石をまた押し上げる営みを永遠に繰り返すギリシャ神話のシーシュポスのように、夫婦は無心に草を除きつづけた。花を咲かせて実をつけ、梅干に仕上げるまで一切の作業を夫婦だけで行ってきた。わが子同然の梅を余人の手に委ねたくないのだ。
当然のことながら、梅の木は一年がかりで一度しか実をつけない。失敗したら一年の丹精が無になってしまう。真剣かつ慎重にならざるを得ないし、労を厭うてはいられない。梅干も製法も古来から少しも変わらないから、よりよい梅干をつくるにはよい梅の木を育てるほかないのだ。在来の「杉田」「青軸」から「十郎」に品種が転換されてきたのはそのためである。十郎梅は皮が薄いがしっかりしており、果肉がたっぷりついて、種ばなれがよい。しかし、それも育て方による。重雄さんは草刈りの合間によい実をつける他家の剪定法をそれとなく観察して技術を盗み取り、「丈夫に育って、よい実をつけてくれや」と心の中でわが子に語りかけるようにしながら収穫のときを待った。
梅は大寒に咲き、梅雨に実をつける。四季のうち一番寒いときに花見の楽しみを与え、最もうっとうしい季節に収穫の喜びをもたらす。菅沼さん夫婦はそういう健気な梅の木が愛しくてならないという。収穫された実はごしごし洗われ、塩をかけられ、石の下敷きになって三十日あまり、今度は土用の陽気に三日三晩さらされ、ようやく梅干として生まれ変わる。
こうして梅の木と実と一緒に過ごす一年が夫婦の暮らしである。何百本もの木の年輪の一つ一つに夫婦の歴史が刻まれている。結婚して二年目に生まれた長男には「樹木のように素直にすくすく育って欲しい」と願いを籠めて直樹と名づけた。それから三年して長女の沙織さんが生まれ、さらに三年を経て次男の巧さんを得た。立てば歩めで三人の子が育つ楽しみが加わった。愛する対象が増えるにつれて夫婦の愛情は薄れるどころか逆に密度が濃くなって、満ち足りた心は自分たち以外の対象に向かう。
梅干の一粒が出来上がっていく節目は嫌な季節ばかりだ。梅の花びらは横向きかうつむきかげんになって雌しべと雄しべを霜から守り、懸命に子孫を残そうとする。「夫婦にも通じることだべなあ」
「ほんとに……」
「一粒の梅干が大事だなあ」
「ほんとに……」
梅に対して梅の花のようでありたいというのが菅沼さん夫婦の切なる願いだ。梅林でさりげなく語らいながら木に感謝を捧げる夫婦の姿は、ミレーの絵画「晩鐘」の祈りの場面を見るようである。
梅干は不思議な食べ物だ。酸っぱい味をしていながらアルカリ性食品で、目に見えない体質の改善に役立つ。保存性からいっても生ものなのに五十年もの、七十年ものといわれるように、丹精して寝かせれば信じられないくらい寿命を保ち、塩を結晶に吹く頃には熟成の極致に達してえもいわれぬ妙味を醸し出す。その珠玉の一粒には三十万円、五十万円もの値段がつくという。暮らしにゆとりが出たら、値段のことはさておき、いつかは自分たちもそういう年代ものを手がけたいと思う。だが、その前に一年ものがある。一年ものをなおざりにして五十年ものもないだろう。
菅沼さん夫婦は梅の木と年輪を重ねつつ経験に培われた勘に磨きをかけた。
技術といっても基本は手間をかけて丹精を傾けることである。創意工夫はしっかりした基本の上にのみ成り立つ。一番の勘どころは樽に寝かせた一粒一粒の梅と塩と石の微妙な匙加減だ。昔は塩を多く使い載せる石も軽かった。塩分が減るとその分だけ石を重くしないとうまく漬からない。粒の大きさで塩分が異なるから、大小の梅を同じ樽に漬けるわけにいかない。粒と塩と石の相関関係を経験から数値で割り出すことはできるが、膨大な数を相手にやれることではない。朝な夕な樽を見て梅酢の浮き具合を確かめ、経験値に裏打ちされた勘一つで石の重さを調節していく。時間をかけて梅干に育つ梅の実、それを見守りながらここぞという頃合で上の粒と底の粒を置き換える。こうして夫婦春秋三十五年、重雄さんと光江さんが梅干づくりに丹精する姿は、生まれる子を待つ親のごとしだ。
平成十八年の今年、菅沼重雄さんは第十三回小田原梅干コンクールで最高位の知事賞に再び輝いた。しかし、重雄さんは受賞については最後までひとことも触れなかった。
梅は匂いよ、桜は花よ、人の見栄えはただこころ……。
菅沼さん夫婦の人となりはまさに馥郁と薫る梅の花のようであった。
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光江さん、小学三年生のころ。
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