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| 昭和8年、宮崎県延岡市に生まれる。昭和30年、横浜国立大学学芸学部地学科卒業。昭和35年、東京大学大学院数物系研究科地質学専攻博士課程修了、理学博士となる。昭和55年、東京大学教養学部教授。平成5年、東京大学名誉教授、放送大学教授。平成16年、放送大学名誉教授。 平成7年3月から12年3月まで、神奈川県立生命の星・地球博物館館長。平成7年4月、財団法人日本科学協会理事長に就任、現在に至る。平成12年、福井県立恐竜博物館館長に就任。政府科学技術会議専門委員、文化庁文化財保護審議会委員などを歴任。 昭和35年、「西南日本外帯ゴトランド系の層序と分帯」で日本地質学会奨励賞受賞。昭和46年、「古生代三葉虫及びサンゴの研究」で日本古生物学会学術賞受賞。主な著書として、『宇宙地球科学』『地球科学への招待』(いずれも東京大学出版会)、『化石入門』(小学館)、『「落ちこぼれの子」ほど素晴らしい』(海竜社)などがある。NHKスペシャル『地球大紀行』の監修を手がけるなど、幅広い分野で活躍。 |
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| 「富士山がハートのマークの上に見えるぞ」 日比谷から谷一つ隔てた山脇中・高女のことである。 濱田隆士さんは遅刻坂と呼ばれた坂を登下校で上り下りしながら、破壊された建物の地下室をのぞき込んだり、勉強そっちのけでいたずらをして歩いた。 上野に国立科学博物館があった。桜井欽一という有名な地学博士が国立科学博物館の鉱物・化石標本を扱っていた。桜井欽一先生は神田にある『ぼたん』という料理屋の主人でもあるが、東大で学位を取得したという変わり種だった。情熱的で、ユニークで、そこに魅せられて、濱田隆士さんの博物館通いが始まった。濱田隆士さんは桜井欽一博士の指導を受けるために、暇さえあれば、電車道を歩いて国立科学博物館へ向かった。行き帰りに神田の古本屋街に寄り道しては文献を漁った。 濱田隆士さんが博物館で桜井欽一博士から主にやらされたのが、鉱物標本と化石標本につけられた登録番号の「朱」を消さないように汚れを落とす作業だった。日本が戦争に負けて博物館を接収していた軍隊が引き払う際、標本を床にばらまいてしまったのである。朝から晩まで冷たい水に手をさらして汚れを洗い落とし標本をきれいにしていった。冬場のつらい作業であったが、無数の鉱物・化石を目から入れるだけでなく、直に手を触れて重さを量って知るまたとない機会でもあった。 勉強とは経験なんだなあ……。 濱田隆士さんは心を躍らせながらしみじみ実感した。 そもそも地学へのめり込むきっかけは、幼い日にまでさかのぼる。 |
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| 探す喜びは残ったものの未達成感は拭い切れなかった。そこで、濱田隆士さんは一計を案じた。 小さな水晶を埋めれば大きくなるかもしれない。 濱田隆士さんは、早速、実行に移した。 息子の期待を知って、おかあさんが吹き出した。 「そんなの大きくなるわけないでしょ」 しかし、このとき、濱田隆士さんは理屈では割り切れない学究魂を得たのだった。
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ある日、濱田隆士さんは重いリュックを背負って営林署のバイクのうしろに乗せて貰い、デコボコ道を跳ねたり踊ったりしながら入山した。バスはあっても一日一本という山奥であった。そこからさらに道なき山を夢中になって鉱物・化石を探していくうちに、日本海側と太平洋側を画す分水嶺に達した。高いところにあるとばかり思っていた分水嶺が、意外と低い場所にあったことに濱田隆士さんは驚いた。紛れもなく頂上なのだが、ほとんど平らで広々としていた。それがいけなかった。濱田隆士さんは方角の見当のつけようがなくなってしまい、「ええ、ままよ」と下ったものの這ってきたのとは反対側だった。 こうして、濱田隆士さんが地学三昧に日を送っていくうちに、気づいたときには大学受験が迫っていた。受験勉強をまったくしなかったために濱田隆士さんは大学進学にはたと行き詰まった。 担任の先生が濱田隆士さんを叱った。 「おまえ、そんなことばかりやっていて、東大なんか受かるわけないだろう」 「先生、じゃ、どこがいいですか」 「そんなの自分で決めなさい」 濱田隆士さんにとって進学はあくまでも二の次だった。 |
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| 拾う神 受験勉強もしないで入れる大学など、どこにもなかった。濱田隆士さんはすっかり途方に暮れた。しかし、捨てる神あれば拾う神がいた。日比谷高校に受験を忘れるほど鉱物・化石の好きな学生がいる--噂はめぐって、桜井欽一博士の耳に届いた。 「だったら、横浜国大に入りなさい」 桜井欽一博士は横浜国大の入試面接官を務める鹿間時夫教授に濱田隆士さんを紹介し、入学に便宜を図ってくれた。鹿間教授は桜井欽一博士の「学問の兄弟」で仲がよいのに口喧嘩ばかりしている型破りな教授だった。 面接のとき、鹿間教授が濱田隆士さんに質問した。 「おまえ、飲めるか」 「一滴も飲めません」 濱田隆士さんは本当に酒を飲んだ経験がなかった。
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| 行し、石ころ拾いに明け暮れた。濱田隆士さんが珍しい石を見つけて眺めていると、鹿間教授がのぞきに来た。 「その骨、俺にくれ」 鹿間教授は骨の化石が専門で「ほね」という徒名までついていた。 夜は山奥の露営地で車座になって酒を飲み、お互いの失敗談を語り、成果を自慢し合った。濱田隆士さんも高校時代からのフィールド研究に伴う失敗談を披露した。鹿間教授にも似たような覚えがあるらしく、最初は面白がって聞いていたが、それだけでは終わらなかった。数多い失敗武勇伝が気に入られたのか、骨化石専門の鹿間教授から三葉虫石専門の小林貞一教授にまで話題が伝わり、濱田隆士さんが東大の大学院に推薦されることになった。 「受かるわけありませんよ」 「いいから、受けろ」 濱田隆士さんは万に一つの望みもなく東大の大学院に願書を提出した。 |
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| 恩に報ゆるの道を行く 東京大学大学院数物系研究科地質学専攻博士課程受験のとき、面接を担当したのがその小林貞一教授だった。中国大陸で暮らしたことのある関西の人で、膨大なコレクションの持ち主でもあった。しかも、まだ大部分が未整理だった。 小林貞一教授がいきなりいった。 「おまえさんは、おもしろいやつだ。サンゴをやらんかね」 人間がおもしろいのとサンゴがどこでどう結びつくのか。海をフィールドにするなんて嫌だな--濱田隆士さんは思わず問い返した。 「サンゴって、化石ですか」 「おまえさんは、何も知らないんだな」 濱田隆士さんは鉱物専門だったが、サンゴを知らなかったわけではない。サンゴの研究を受け容れたくなかっただけである。しかし、小林貞一教授が地図で示したポイントは濱田隆士さんの知らない場所ばかりだった。ペーパー試験が終わった時点で、濱田隆士さんは 「ああ、落ちたな。終わったな」 とあきらめていた。 どうせだめだろうからと思って、濱田隆士さんは家に帰った。準備も下調べもしないでいると、小林貞一教授から「内定予定」という通知が届いた。内定予定だから、決定の段階で落ちるだろう。濱田隆士さんが期待半分とまでもいかない気持ちで結果を待つところへ、後日、正式の合格通知が舞い込んだ。 濱田隆士さんは、今度は高知県の山奥をフィールドにして、サンゴの化石研究を開始した。中国山地の秋吉台ほど大規模ではないものの、四国の脊稜にもカルスト地形が存在し、石灰岩の岸壁が随所に剥き出しになっている。からからと音を立てて落ちてくる石を警戒しながら、濱田隆士さんが石灰岩を掘っていると三葉虫の化石が現れた。三葉虫こそが小林教授の専門分野である。 このために、俺を合格にしたのか。 |
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