芳澤 一夫さん

かまぼこ板絵『小さな美術展』に
招待作家として新たに加わる


昭和29年、神奈川県足柄上郡松田町に生まれる。松田小、松田中、西湘高校を経てすいどーばた
美術学院で学ぶ。昭和53年、第三文明展に入選したのを皮切りに、昭和59年、上野の森美術館
日本画大賞展入選、昭和61年、東京セントラル美術館日本画大賞展入選、上野の森美術館絵画
大賞展入選、ブロードウェイ新人賞展第三席入賞、昭和62年、ブロードウェイ新人賞展第二席入賞
と立て続けに入選、受賞。平成3年、フランスに遊学。帰国後、さだまさし『にっぽん』『さだまさし白書』『逢いみての』『にっぽんU』などのジャケットを相次いで制作。平成11年には、さだまさし25周
年記念アルバム10枚セットジャケット画を制作。平成11年、14年、15年、箱根成川美術館で個展を開催したのをはじめ、個展多数。高等学校教科書の表紙画も手がけている。
平成15年には小田原駅アークロードのステンドグラスを制作。今年、鈴主催『小さな美術展』に招待作家として出品。小田原在住。


幼いときの習練が原点

 芳澤一夫さんは、昭和二十九年、足柄上郡大井町に生まれ、松田町に育った。
住まいはかつての豆腐屋の造りで、母親の寿子さんの生家だった。土間が広く、
天井が真っ黒にすすけ、戸は一枚板で黒光りし、庭にはモミジの古木があった。
秋になると寿子さんが障子の取っ手の部分にモミジの葉を二、三枚挟み込み、
眺めて楽しんでいた。微妙に色合いの異なる泉、障子の白、モミジの赤―幼心
にも強く印象に残る光景だった。
 父親の忠男さんは職業を転々としたが、国産乗用車の生産がようやく軌道に乗り出した時代、まだ免許を持つ人さえ限られたのにすべての免許を持っていた。
今から十五年前に他界してしまったために、本当は何をしたかったのか聞くことは
できない。芳澤一夫さんはこうした両親の感化を受けて、貧しいながらも楽しく風情のある毎日を送った。
 芳澤一夫さんは小学校へ上がったときから母親の寿子さんの内職を手伝い出し

た。徒競争が苦手で、いつもビリだったから、外で遊びたいとも思わず、一日に何千という数の輸出用木工製品の色つけに没頭した。ビニール袋に入った人形の頭の中に埋もれて、目なら目だけに何百、何千と原色を
ペイントする果てしのない繰り返し、それが手先の習練にもなって、同時に絶対的な色彩感覚が培われた。
 それが画業の原点になった。やがて、小学校六年生になって、芳澤一夫さんは卒業文集に「ぼくは絵描きになる」と書いた。以来、一度もぶれることなく、画業に打
ち込んできた。母親の内職を手伝った幼い日々、すでにそこに今日が胚胎していたのである。


ご両親とお姉さんと一緒に

 芳澤一夫さんの色感は美術学校で教わった理論から紡いだものではなく、少年のときに働いて汗を流しながら、意図しないうちに身についた―ということに大きな
意味を持つ。細工物によって異なる色を扱っていくうちに、まっさらな心のカンバスにいつの間にか染みついた不作為の色感とでもいおうか。
 芳澤一夫さんの作品は、「これが日本画ですか」とよく聞かれるが、紛れもなく膠絵の具を使った日本画で、少年時代に得た色感が見る人を錯覚させるのだろう。



こうとしか生きられない

 芳澤一夫さんは三月三十一日の生まれである。普通は学校へ上がったとき遅
生まれの子との体力的な差を考慮し、二、三日遅らせて遅生まれに変えるのだが、「これからの子は大学進学が当たり前になる。浪人することもあるだろうから、そのまま届けて早く学校へ上げたほうがよい」とお産婆さんがいったために、誕生日を変えなかったという。芳澤一夫さんは、ぎりぎりいっぱいの早生まれで学校へ上がった。
 芳澤一夫さんは、やがて高校を卒業し、東京芸術大学美術科を受験した。結局、四浪したから、お産婆さんの意見が正しかったことになる。


家の中にいるほうが好きだった少年時代
 四浪する間、芳澤一夫さんは「すいどーばた美術学院」でデッサンの基礎を学んだ。そこは芸大にかなりの確率で合格する実績を持つ美術研究所だった。四年いるうちに、芳澤一夫さんの描写力にさらに磨きがかかり、いつしか後輩の受験指導をするまでになっていた。
 ところが、後輩が合格して、芳澤一夫さんは落ちた。
「こんなことやってたって駄目だ。自分でやろう」
 挫折感はなかった。美術はもちろん、文学も含め、表現の世界は独学がすべてなのである。芳澤一夫さんは芸大の学歴に頼る処世本位の道を見限って、本来の独学に目覚めたのだ。翻然と悟った芳澤一夫さんは風呂敷包み一つ持って家を出、中野に下宿して画業に専念した。
 中野の下宿は戦前からある壊れかかった木造の建物で、ベニヤの戸を開けるとすぐに三畳一間の部屋が目に飛び込んできた。押し入れもないし、トイレも流しも
なかった。すべて共同である。変な人ばかりいて、絵に集中できないので、すぐに転居を考えて不動産屋へ行った。
「絵を描くのに、どこか安くていいとこないですかね」
「だったら、××荘しかない」
 不動産屋が勧めるのは、芳澤一夫さんが敬遠して出ようとしているアパートだった。そこに住んでるともいえずに、芳澤一夫さんは黙って引き返した。
 中野の次は高円寺、さらに椎名町と居所を変えていくうちに、芳澤一夫さんは
親戚中から反対された。
「長男なんだから、お父さん、お母さんに、苦労かけないようにしなきゃあ」 
 親孝行はできなくても、迷惑をかけない、と芳澤一夫さんは固く決心して家を出てきたのだ。両親もまた何もいわずに好きなようにさせてくれていた。新聞配達、ハ
ンバーグ屋の店員、解体屋の手伝い、道路工事の作業員、いろんなアルバイトをしながら、芳澤一夫さんは画業を貫き通した。
 二十代半ばを過ぎて、ふとまわりを見まわすと、地方から上京してきて、画家にもなれず、さりとて夢も捨て切れずに生きる仲間が大勢いた。
 同じような仲間がいるということが、果たして自分のためになるのだろうか。芳澤一夫さんは仲間に甘えた
雰囲気にひたって生きることの危うさに気づいて、東京から去る決心を
した。


アトリエにて

 絵描きになるためだったら何でもできる。二十八歳で泰子さんと結婚するとき
デザイン会社に就職した。合間に公募展、コンクール展で入選、入賞を積み重ね、さだまさしさんと出会った。
 友人のシンガーソングライターがアルバムを出したときのプロデューサーがさだ
まさしさんを担当していた。友人が芳澤一夫さんの作品集をプロデューサーに見せると、「ちょっと貸してくれ」といって持って行き、さだまさしさんに披露した。
「この人に、是非、お願いしたい」
 表現する分野は違っても、研ぎ澄まされた感覚は同じである。さすがにさだまさしさんはさだまさしさんだった。
 芳澤一夫さんのこれまでの苦労がようやく報われた。しかし、感覚的には呆気なく感じられた。別に転機とも思わなかった。こうとしか生きられなかった。これからも、こうとしか考えられない道を行く。



大きくなっても『小さな美術展』

 ところで、鈴廣かまぼこ鈴木智恵子会長の発案で昭和五十七年に始まったかまぼこ板絵コンクール『小さな美術展』は、平成十七年の今年、第十二回を数える。二年に一度の開催であるから、すでに二十四年の歴史を持つ。芳澤一夫さんが
その『小さな美術展』に関わり合いを持ったのは、二十代後半の頃である。
 当時、芳澤一夫さんはアルバイトで子どもたちに英語を教えていた。原付バイクに乗って会場をまわるうちに、絵描きだということが保護者に知れて、「だったら、
絵も教えてよ」と頼まれた。
 そのときに始まったのが『小さな美術展』である。
 作品募集のパンフレットを読むと、条件はかまぼこ板を使うこと、二枚以下であるというだけで、表現は自由、年齢は不問とある。小さなと謳い、ジュニアの部がある
からには、子どもをターゲットにしているのだろう。そのような美術展は前代未聞である。かまぼこ板二枚以下と〈枷〉をつけたところも憎かった。枷を設けてやることで、子どもたちは逆にその小さな空間に空想を自由に飛翔させることができる。
 芳澤一夫さんが教える子どもたちは、一番下は二歳少々、上は中学生、なかなか「いい絵」を描いた。芳澤一夫さんは絶好の発表の
機会が得られたと喜び勇んで応募させた。
応募した五人のうち、二歳の子ともう一人が、それぞれ『銀のすず賞』と『銅のすず賞』に輝いた。
 それから、二十年余、芳澤一夫さんが美大の教授で画家の中野嘉之さんと小田原の料亭『右京』で食事をしているところへ、鈴木智恵子会長がひょっこり現れた。


画室にて

右京の主人伸介さんは、智恵子会長の三男である。
「わたし、中野先生の絵を持ってるのよ」
 小田原べらんめえで飾らない感じでいう智恵子会長と中野画伯はたちまち意気投合し、どちらとも親しい芳澤一夫さんも加わって話が弾んだ。
「ねえ、中野先生、小さな美術展に招待作家として絵を出してよ」
 談論風発に時を過ごしてから、頃もよしとばかりに智恵子会長が中野画伯に頼むのを聞いて、芳澤一夫さんはすかさずいった。「じゃあ、ぼくも出す」


箱根・芦ノ湖 成川美術館の個展の前で

 芳澤一夫さんはだれよりも『小さな美術展』を高く評価してきた。広く知られ、評判になり、大きく育っても、初志貫徹で『小さな美術展』のままでいるのがいい。絵は好きだが画家になろうとまでは考えない。そうした子どもたち、お父さん、お母さんの絵心を刺激し、発表する機会を持ちつづけることで、世の中に果たした精神的功績は譬えようがない。長い年月をかけて小田原の文化といえるまでに育った『小さな美術展』に、芳澤一
夫さんは今度こそ自分も参加したいと思ったのである。