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高橋秀直さん(七十歳) 片浦レモンを名産に育て、 |
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●高橋秀直さんのプロフィール |
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片浦とは、北から南へ石橋、米神、根府川、江之浦と続く四キロメートル四方の地域をいう。かつての片浦村である。 治承四(一一八〇)年、伊豆に挙兵した源頼朝が、当時、後白河法皇の院宣を受けた平家方大庭景親と豪雨の中に凄まじい戦いを繰り広げ、敗れたのが石橋山である。米神、根府川、江之浦の山中を敗走した頼朝は、箱根権現で態勢を立て直し、真鶴の岩海岸から房総へ渡って蘇った。 戦国時代末期、小田原攻めの最中、豊臣秀吉が江之浦山腹の熱海道沿いに天正庵と称する茶室を設け、茶の湯に興じたこともある。それほど風光に秀でた場所である 江戸時代には根府川に箱根関所の裏関所があって、小田原と伊豆への往還を取り締まった。
粂次郎さんは三回目の召集を断ることができたのに、アメリカ軍の本土上陸を阻止し、愛する家族を守るために出征を決意したのである。
秀直さんには忘れられない光景だ。
やがて、陽が昇ると沖にブリ漁の大漁旗が立つ。一本立てば一万尾、二本立てば二万尾である。漁業権を持つ秀直さんは急いで山から漁港へ駆けつけ、水揚げを手伝った。
片浦レモン復活の陰に……。 視察してまわり、それを機会にして全国に数多くの知己を得た。使節団の団員にはのちに代議士になった者もいるし、ほとんどが各界で重きを成して活躍した。海に接した山にへばりついた片浦という土地に埋もれるようにして地道に働いてきたのは秀直さんぐらいなものであった。 しかし、どんなに偉くなっても、かつての仲間は秀直さんのことが忘れられなかったらしく、東京へ出てきたときには片浦へ立ち寄ったり、わざわざ足を伸ばして訪ね て来たりして旧交を温めた。 秀直さんにとって青年団長時代の思い出で生涯忘れられない喜びは、正八幡神社の祭事として催される鹿島踊りと対をなす「マンド」を、小学校時代からの親友松本峯雄さんと二人で復活させたことであった。 苦労というほどの苦労を伴ったわけではなかったが、「マンド」は青年団の守り神である。振り手がいないため二十数年も絶えていた行事が蘇った嬉しさはたとえよ うのないものであったという。 片浦農協が小田原農協と合併したのを一つの節目として、秀直さんは理事を辞職した。 すると、それを待ち受けたかのように米神自治会長のお鉢がまわってきた。そういう星の下に生まれついたのだろう。 小田原市の中でも片浦地区は典型的な過疎地帯である。どうやって町起こしをするか、難題に真正面から立ち向かうことになった。 そして、平成四年、秀直さんは小田原農協片浦支店レモン研究会の会長になった。 「よし、片浦レモンで町起こしをしよう」 レモンはインド・ヒマラヤの山麓が原産地で、そこから世界に広まり、地中海のシチリア、北米カリフォルニアが二大生産地となった。日本では瀬戸内海の島で栽培が始まり、片浦がそれに追随して早くから手がけてきた。
片浦レモンの魅力は無農薬栽培である。無農薬で新鮮であることが首都圏の消費者団体に喜ばれ、昭和五十四年当時は一トンでしかなかった生産量が、現在は二十五トンを超す勢いである。 |