高橋秀直さん(七十歳)

片浦レモンを名産に育て、
町起こしに半生を捧げる・・・・・。

●高橋秀直さんのプロフィール
昭和8年8月18日、小田原市米神に生まれる。旧制片浦小学校高等科を経て、昭和26年、新制平塚農業高校を卒業。半農半漁の高橋家を継いで今日に至る。平成3年以来、片浦レモン研究会会長。現在、片浦地区自治会連合会会長、米神地区自治会会長、片浦地区社会福祉協議会会長、片浦地区財産区議員。


教育を子に父として与えた母
 
 片浦とは、北から南へ石橋、米神、根府川、江之浦と続く四キロメートル四方の地域をいう。かつての片浦村である。
 治承四(一一八〇)年、伊豆に挙兵した源頼朝が、当時、後白河法皇の院宣を受けた平家方大庭景親と豪雨の中に凄まじい戦いを繰り広げ、敗れたのが石橋山である。米神、根府川、江之浦の山中を敗走した頼朝は、箱根権現で態勢を立て直し、真鶴の岩海岸から房総へ渡って蘇った。
 戦国時代末期、小田原攻めの最中、豊臣秀吉が江之浦山腹の熱海道沿いに天正庵と称する茶室を設け、茶の湯に興じたこともある。それほど風光に秀でた場所である 江戸時代には根府川に箱根関所の裏関所があって、小田原と伊豆への往還を取り締まった。

 今、石橋、米神、江之浦に漁港がある。海に迫る急な山の斜面には、温州みかん「青島」「大津」などの果樹園がつづき、県内きっての産地となっている。
 小田原市農協片浦支店片浦レモン研究会会長の高橋秀直さんは、米神の半農半漁の旧家に生まれた。三人の男の子の長男だった。
 しかし、秀直さんに父親の粂次郎さんの印象は薄かった。軍隊に三回も召集を受けて、フィリピンで戦死してしまったからで、ほとんど家にいなかったからであった。終戦の年、秀直さんは片浦小学校五年生だった。
 母親のサダさんは秀直さんを伴って横須賀へ行き、輸送船に運ばれてフィリピンへ出征する粂次郎さんを見送った。


昭和13年頃米神八幡宮にて弟の
お宮参りのときの記念写真。
左端が母親のサダさん、
右から2人目が秀直さん.

 粂次郎さんは三回目の召集を断ることができたのに、アメリカ軍の本土上陸を阻止し、愛する家族を守るために出征を決意したのである。
 南方へ兵員を運ぶ輸送船がビシー海峡で待ち受けるアメリカの潜水艦の餌食になる中、粂次郎さんはフィリピンに無事上陸、戦傷が
悪化して回復の見込みがないために、足手まといになることを嫌って手榴弾で自決を遂げたという。


昭和9年8月18日、満1歳の誕生日の記念写真

 魔のビシー海峡で海の藻屑とならず、郷里の友人鈴木平八さんに最期を見届けて貰えたことが、せめてもの幸いであった。復員した平八さんから粂次郎さんの戦死のもようを聞かされたとき、サダさんは秀直さんにそういって健気に涙を堪え、以後、名前を節子と改めた。亡き粂次郎さんに代わって我が子を立派に育てる決意をしたのだろう。
 片浦尋常小学校高等科から平塚農業高校へ進学した秀直さんは、根府川駅から客車の連結部にまであふれた乗客に押しつぶされそうになりながら、通学生活を送ることになった。
 根府川駅を出てトンネルをくぐり、目の前が開けると引き絞った弓型に山に囲まれた米神の集落が目に飛び込んでくる。
朝日に輝く相模灘ではブリ漁が始まっていた。

 秀直さんには忘れられない光景だ。
 後からわかったことだが、節子さんは学校を父親代わりに考えて、我が子三人に可能なかぎり高等教育を身につけさせようと決意したのだろう。家族が生きていくだけでも大変な時代、家を出ることになるであろう次男は中学から、三男は高校から慶應に入れて大学を卒業させ、世に出てから困らないようにした。それに先立って跡を継ぐ秀直さんを高校へ遣るだけでも経済的に苦労は大きかったはずだ。
 あれが我が家だと思うと、懸命に働く母親の後ろ姿が俤(おもかげ)として浮かんだ。それなのにこうして平塚まで通学するおのれの身がもうしわけなくもあったし、真剣に学ばねばならないと思った。トンネルを出て米神の風景を目にするたび、秀直さんは母を思い、早く楽にさせてやりたいと誓った。

親父の跡を継げるか
 
平塚農業高校を卒業して高橋家の農業を継いだ秀直さんは、溜めに溜めた水が奔流になってほとばしるように働いた。秀直さんにとって、みかん山のみかんやレモンの木は亡き粂次郎さんの形見であ
った。.二、三月の収穫期になると、秀直さんは陽が昇る前に山に登り、粂次郎さんに感謝しつつレモンの実を摘んだ。


昭和38年頃、農協全国青年団欧州視察団の
農業視察交流で訪れたモスクワ大学にて

 やがて、陽が昇ると沖にブリ漁の大漁旗が立つ。一本立てば一万尾、二本立てば二万尾である。漁業権を持つ秀直さんは急いで山から漁港へ駆けつけ、水揚げを手伝った。
 大漁だとブリの水揚げが済むのは夜半に差しかかる十時、十一時までかかる。手は凍るように冷たい。ブリをつい岸壁から海に落として怒鳴られたこともある。
 男はこうして育つ。
 秀直さんはこうして一心不乱に働く一方で青年団長を引き受けた。郷土あっての我――というのが、父親の遺訓と秀直さんは受けとめていた。
 ある日、秀直さんは道端で米神の有力者鈴木信吉さんから声をかけられた。
「おまえ、親父の跡を継げるか」
 信吉さんはそういっただけで、すでに歩み去っていた。
 しかし、秀直さんはその場に佇み、信吉さんの言葉の意味を考えた。
 すでに二十歳を数え、高橋家を継いで、村の青年団長として郷土のためにも働いているという密かな自負に、秀直さんは頭の上から水を浴びせられた思いだった。
 今の自分と粂次郎さんを比較しようにも、父子一緒に家で暮らした記憶がなかった。ほとんど出征していたし、家にいるときでも片浦のために奔走していたらしい。だから、粂次郎さんを幼いときから見てきた信吉さんのほうが、秀直さんよりも父親の人となりをよく知っているわけである。

親父はそれほどの人だったのか……。
 そう考えないと言葉と意味が合致しなかった。 おい、いい気になるなよ。今の
ままじゃあ駄目だぞ。
 秀直さんは信吉さんの言葉をそのような意味に置き換えて噛み締め直した。
 不惜身命という言葉がある。応召する必要もなかったのに、みずから進んでフィリピン戦線に出征して行き、愛する家族と祖国を守ろうとした粂次郎さん――言葉に
していうことはたやすくとも、実践することは並大抵ではないのだ。 二十歳になって家を継ぎ、郷土のためにも働くようになって一人
前になったつもりでいたが、親父に比べたら俺などはまだ洟垂れ小僧だった。
 だが、負けてたまるか。
 秀直さんはあらためて気持ちを入れ直した。


片浦レモンを使った『小田原れもんわいん』が平成15年度第1回国産ワインコンクールのフルーツ部門でレモンを使ったワインとしては唯一入選

片浦レモン復活の陰に……。
 高橋秀直さんは若くして我が子が通う片浦小学校のPTA会長、体育協会の会長、片浦農協の理事、神奈川県の青年団理事長まで務めた。神奈川県の青年団理事長時代には、全国青年団の欧州視察団の一員として欧州から東欧、ソ連を
視察してまわり、それを機会にして全国に数多くの知己を得た。使節団の団員にはのちに代議士になった者もいるし、ほとんどが各界で重きを成して活躍した。海に接した山にへばりついた片浦という土地に埋もれるようにして地道に働いてきたのは秀直さんぐらいなものであった。
 しかし、どんなに偉くなっても、かつての仲間は秀直さんのことが忘れられなかったらしく、東京へ出てきたときには片浦へ立ち寄ったり、わざわざ足を伸ばして訪ね
て来たりして旧交を温めた。
 秀直さんにとって青年団長時代の思い出で生涯忘れられない喜びは、正八幡神社の祭事として催される鹿島踊りと対をなす「マンド」を、小学校時代からの親友松本峯雄さんと二人で復活させたことであった。
 苦労というほどの苦労を伴ったわけではなかったが、「マンド」は青年団の守り神である。振り手がいないため二十数年も絶えていた行事が蘇った嬉しさはたとえよ
うのないものであったという。
 片浦農協が小田原農協と合併したのを一つの節目として、秀直さんは理事を辞職した。
 すると、それを待ち受けたかのように米神自治会長のお鉢がまわってきた。そういう星の下に生まれついたのだろう。
 小田原市の中でも片浦地区は典型的な過疎地帯である。どうやって町起こしをするか、難題に真正面から立ち向かうことになった。
 そして、平成四年、秀直さんは小田原農協片浦支店レモン研究会の会長になった。
「よし、片浦レモンで町起こしをしよう」
 レモンはインド・ヒマラヤの山麓が原産地で、そこから世界に広まり、地中海のシチリア、北米カリフォルニアが二大生産地となった。日本では瀬戸内海の島で栽培が始まり、片浦がそれに追随して早くから手がけてきた。

 片浦レモンの魅力は無農薬栽培である。無農薬で新鮮であることが首都圏の消費者団体に喜ばれ、昭和五十四年当時は一トンでしかなかった生産量が、現在は二十五トンを超す勢いである。
 片浦レモンの復活は神奈川県消費者の会と小田原市の協力の賜物であるが、その一方において、秀直さんが神奈川県青年団理事長時代に培った全国の人脈が大きく物をいったのも確かであろう。
 しかし、秀、優、良の三段階の品質評価でいう「良品」は売り物にしない。生産者は自分が丹精したものを自分で食べるか、捨てるしかなかった。
 秀直さんは考えた。
「梅ワインがあるなら、良品レモンでワインがつくれるのではないか」
 秀直さんははたと手で膝を打って、直ちに小田原市経済部に働きかけ、山梨のマンズ・ワインを動かして『小田原れもんわいん』の商品化に漕ぎ着けた。そのワイン
が品評会で賞を取った。
「これまでも一生懸命、死ぬまで一生懸命……」
 それが高橋秀直という人の生き方なのだろう。
 秀直さんの夢は片浦レモン年間五十トンの生産と『小田原れもんわいん』の市販化である。それが現実となったとき、片浦の町起こしは一段と弾みがつく。