山田昇さん(七十二歳)

.草の根から歴史文化を掘り起こす
小田原ボランティアガイド協会会長

 

昭和5年、広島県福山市に生まれる。昭和29年に大学を卒業して協和銀行に入行、各地を転勤し、昭和43年から46年まで小田原支店に勤務。昭和55年、バンクーバーBcカナダに出向し、進出日本企業をサポート。昭和58年、日本に帰国し、取引先関連企業に経営参加。平成6年、退職して間もなく小田原シルバー大学歴史観光学科入学。平成9年、小田原シルバー大学卒業と同時に小田原ボランティアガイド協会を設立、会長に就任し、今日に至る。小田原市行政改革市民会議委員長、小田原市市民活動会議座長、小田原市観光協会理事。


何かあるはずだが、わからない

 山田昇さんはいわゆる戦中世代である。旧制中学で終戦を迎え、新制大学第一期生として卒業し、協和銀行に入行してから労働運動、海外生活、企業の経営者として立て直しの苦悩もやり甲斐も経験した。戦後日本史の縮図のような人生をひたすらに生き抜いてリタイアを迎えたとき、山田昇さんは六十四歳になっていた。
 余生というが、まだまだ枯れる歳じゃない……。
 否、身体が年を取っただけで、気持ちは逆に若々しく人生に張りを求めていた。
 これから何をしよう。
 何かあるはずだが、その〈何か〉がわからなかった。
 余生を充実させるための指南本を何冊か買い求めてみたが、掴めなかった。
 山田昇さんは旅に出た。二月から四月までのわずか三カ月の間に、北は弘前から南は阿蘇まで、秋田、岩手、栃木、茨城、千葉、長野、岐阜、京都、四国、広島、島根、山口など思いつくままに足を運んで、気づいたときには桜の花が満開だった。
 やがて散る桜の花のイメージがおのれの行く末にだぶった。
 まだ散る歳じゃない、散ってなるものか。まだまだ世の中のお役に立ちたいのだ。だが、どうすればよい、どうしようがあるというのだ。
 悩むだけの山田昇さんに、妻の久美子さんが無造作に声をかけた。
「これなんか、どお」
 目の前に差し出されたのは、小田原市が開設したばかりのシルバー大学受講生の募集パンフレットだった。


『小田原ボランティアガイド協会』開業式
(平成9年4月1日)



小田原城址にある
『小田原ボランティアガイド協会』の
事務所前で

 案ずるよりも生むが易しという。山田昇さんは歴史観光学科を選択し、小田原シルバー大学に三年間通い詰めた。そして、平成九年に歴史観光学科の講座を修了したとき、三十人の同期生から自然発生的に次のような声があがった。
 折角、自分たちが住む小田原の歴史を学んだのだから、余生を有意義に過ごすためにも世の中のお役に立てようではないか」
 小田原市長小沢良明さんの後押しで、それがボランティアガイド協会を設立しようという案になり、率先して働いた山田昇さんが推されて会長になった。小田原城址公園内に事務局も出来た。
 主な役割は小田原城址を始め市内六つのコースを案内して歴史を説明することである。活動を進めていく間に、身につまされるような出来事がいくつかあった。
 ある日、城祉公園に暇つぶしに来ていた老人のうちの一人が堀に落ちた。山田さんたちは「それっ」と駆けつけて助けあげ、着物を乾かしながら「家の人に来て貰いましょう」と老人に声をかけると、
「それは困る。家にいると邪魔者扱いされるから出かけてきているのに、こんな姿を見せたら、またへマをやって他人に迷惑をかけたといって叱られるからやめて欲しい」
とんでもない、という素振りで断られた。

もう一つの出来事は城址公園を清掃していたときのことだ。
 茶髪の少年が集団で飲み終わった清涼飲料の空き缶を駐車場に転がしていた。
「君たちね、おじさんたちが掃除しているのが見えないのかい。散らかさないでごみ籠に捨ててくれないか」
 山田昇さんが注意すると、一人の少年が何を思ったのか、空き缶の詰まったごみ籠を引きずってきて、駐車場にぶちまけた。
 「そんなに掃除が好きなら、これ拾え!」
 山田昇さんは内心暗澹とした。

 
あの子の親たちは、自分たちが育てた息子や娘たちと同じ世代だ。老人を粗大ごみに扱う子もまた同じである。子は親の背中を見て育つという。自分はそんな子には育てなかったーーでは、済ませられないぞ。
 山田昇さんは関係先に働きかけて市内の小学校の生徒を城址公園に招き、小田原の歴史を語ってその心に訴えようとした。
 すると、毎回決まったように五、六人が列から飛び出してあたりを駆けまわる。話の最中に平気で大口を開けてあくびをする。こんなことでよいのかということが目に余った。この子らを空き缶をぶちまけた少年のようにしてはならないという思いから、山田昇さんは生徒たちを時に注意し、折に触れては叱った。

 
叱ってくれてありがとう。みんな、すっきりしました。
 −−
アクビをしてすみません。これからは人が話しているときはアクビをしません。
 山口昇さんに宛てた生徒たちの感想文である。生徒たちはみな素直で人柄がよかった。
 やってよいこと、してはいけないこと。彼らは教わっていないのだ。彼らに教えなかったのはだれか
−−注意し、叱った山田昇さんのほうが、がつんと痛棒を喰らった気持ちになった。
 そうこうするうちに早くも五年の歳月が過ぎ、会員は約八十人に増えた。その八十人で何をやるかといえば、市内の観光コースの無料ガイドのほかに、観光バスが発着するたびに駐車場の網を上げ下げする。清掃もする。それだけのことを年末年始を除く一年三百六十一日、朝早くから夕方まで積み重ねていくだけのことだ。
 世の中をよくするのは教育だ、それに尽きる
−−ということはわかっている。だが、観光ガイドのボランティアに何ができるというのか。
 山田昇さんは現代の聖母マザー・テレサのことを思ってはっとした。
 マザー・テレサは来日したとき、
 「豊かだが心の貧しい人々」と日本人を総括した。病人を見舞ったとき、そのマザー・テレサは何か話しかけるわけでもなく、側について手を握って祈りを捧げるだけであったという。
 病人の気持ちになったら確かに何もいえなくなってしまうだろう。手を握って心を通わせるほかに、どうしようがあるというのか。
 物事の大小ではない、究極は心なのだな……。

大人たちの背中で足らぬのなら

 
山田昇さんにとって福山は第一の故郷、終の棲家を得た小田原は第二の故郷である。シルバー大学終了後も独学で学んでいるうちに、二つの故郷が歴史で繋がった。
 山田昇さんが生まれ育った福山も、小田原も城下町であった。


奥様の久美子さんと一緒に

 備後福山は開国期の日本を滅亡の危機から救った若き宰相阿部伊勢守正弘の国許であった。攘夷(鎖国)を貫けばアヘン戦争に敗れた清国(中国)の、開国すれば産業革命で大量生産された安価な綿製品のために生産人口二十万人から二万人にさびれたインド(当時)の綿都ダッカの二の舞になってしまう。そのために攘夷論を強硬に主張する副将軍水戸斉昭を隠居させ、開国急進派の水野越前守忠邦を追放した。そうしたうえで、世界的な養蚕地フランスが蚕の伝染病で全滅しかかった事実を掴み、生糸が莫大な利益をもたらすと知って開国を決意したところへ、たまたま黒船が来航した  結局、.そのときまで開国派か攘夷派かわからず、副将軍と幕閣トップを現役から退かせるという豪腕から、〈瓢箪鯰〉と呼ばれたのが、阿部伊勢守正弘であった。
 相州小田原は北条早雲、大久保忠隣、大久保忠真などを排出している。

なかでも加州侯と尊称された加賀守忠真は、半世紀にわたって将軍の座に君臨し、奸臣に取り巻かれて幕府を傾かせた徳川家斉に隠居を決意させ、宰相の座に就いて二宮尊徳、大塩平八郎らを起用して再建に乗り出そうとした矢先に急逝してしまった。
 幕府を震撼させた大塩平八郎の乱は、大久保加賀守忠真の逝去によって改革の望みを断たれたのがきっかけであったという。
 残された二宮尊徳を用いて傾いた幕府の財政を立て直したのが、阿部正弘なのである。
 加賀守忠真は将軍を隠居に追い込み、伊勢守正弘は副将軍と幕閣トップを政権の座から引きずり下ろした。どちらも国家と日本国民を危機から救うためであった。
 大久保加賀守忠真のそうした偉業に触れた資料はガリ版印刷の粗末なもので、それは群馬県の前橋市立図書館に収蔵されていた。
 これほどの歴史が福山でも小田原でも認識されていない……。
 山田昇さんは愕然とすると同時に、自分が何をなすべきか雷に打たれでもしたように翻然として悟った。
 自分たちの背中では足らぬのなら、共通の先祖として歴史上の人物がいる……。
 歴史を出来事として悟るのではなく、関係した人物の思いや心を語るべきだ、それなら自分にもできる、と山田昇さんは気づいた。
 小田原が私のフィールドだ、それで十分ではないか−−山田昇さんは現役人生では得られなかった尊いものを、ようやくにして掴んだような気がした。
 


山田さんたちの活動が、小田原の旅をより印象深いものにしてくれる