文・小林伸男

柏木春光さん(91歳)

室町時代からつづく

小田原鋳物を伝承して、

美術工芸に道を開いたー

かしわぎ はるみつ氏
明治42年、小田原に生まれる。三の丸小、小田原中学を経て東京物理学校に
進み、昭和4年、中退して鋳物業を継ぐ。昭和5年、帝国工芸会主催の観光土
産工芸展で日本商工会議所賞受賞。昭和6年、日本橋三越に柏木美術鋳物の
常設コーナーを開設。昭和14年、陸軍軍楽隊のシンバルを製作して以来、平成
6年まで日本楽器に納入してきた。昭和40年、第1 回全国風鈴大会で入選。
昭和48 年、細野燕台先生追慕美術工芸展に砂張茶道具を出展。昭和60年、
日本橋三越で個展を開催し、築金技法を公開する。平成7年、第31回キワニス
文化賞受賞。なお、株趨リ美術鋳物研究所は県指定「かながわの名産百選」に
選定されている。


新しい母がきた・・・・・・

 小田原の鍋町で鋳物工場を経営する柏木家に関東大震災で亡くなった母親
ナミさんに代わる新しい人がきた。大正十四年、柏木晴光さんが十六歳の時
のことだ。
 新しい母親の名はレン――父親は吉田卯之助といい、徳富蘇峰と国民新聞
を興した漢学者である。レンさんは山形女子師範学校出の才媛で、前川の小
学校で教鞭を執っていた。
 当時の柏木家は、「鍋町のエジソン」と呼ばれた藤兵衛さんが鋳物工場の再
建に取り組みながら、男手一つで晴光さんほか男三人、女一人、合計五人の
子の面倒を見ていた。それぞれに女中がついていたが、やはり母親が必要だ
ということだったのだろう。藤兵衛さんとレンさんを取り持つ人があって、話が
まとまった。
 レンさんは子どもの頃、父親が三十七歳の若さで他界し、親のないさびしさを
身をもって味わってきた。そのためでもあったのだろうか。
「私は子どもを育てるのが好きだから、子どもは多いほうがよい」
 レンさんはそういって迷わず教職を捨て、血のつながらない五人の子の母親
となる道を選んだ。
 震災で工場も家も失い、どん底の柏木家であった。ましてや五人も子のいる
後添いの結婚である。決して恵まれた条件ではなかったが、レンさんはきた。
そして、自分のお腹を痛めて初めて産んだ男の子に五郎と名づけた。四人の
兄を持つ五番目の子という意味を込めたのだろう。
 レンさんは情が深く細やかで賢い女性だった。実子と継子の区別なく愛情を
注いで育てた。晴光さんは新しい母親を偉い人だと思い、抵抗なく受け入れる
ことができた。

 

最初に認めたのは新しい母だった

 晴光さんは気象学と天文学に興味を持っていた。いずれはその道に行きたい
と考えていたのだが、東京物理学校(現・東京理科大学)二年生の時、家業を
継ぐために中退せざるを得なくなった。
 その頃、藤兵衛さんは仏具や風鈴を主に手がけていたが、晴光さんは父親
の仕事を踏襲するだけでなく、もっと遊び心を生かした作品を商品にできない
だろうか、と考えつづけた。
 晴光さんは子どもの時から鍋町の鋳掛け屋で遊び、職人たちが道楽半分に
蟹やかぶと虫などを器用につくるのを見て育った。それを見よう見真似で会得
してきた技術に、砂を細かくするなど独自の工夫を加えて蟹工物をこしらえるこ
とを思いついた。出来上がったのは本物そのままに今にも動きだしそうな蟹の
細工物であった。その出来映えの見事さに周囲の人はうなった。
 これを東京のデパートへ持ち込むように勧めたのがレンさんだった。母子二
人で東京へ足を運んだ。
「委託で結構ですから、この細工物を置いて頂けないでしょうか」
 白木屋、松坂屋、高島屋など、いずれも門前払いで、各デパートの技術部の
ハードルは高かった。それでも諦めず最後に三越の仕入部へまわった。
「俺には判断がつかないから、部長を呼んで来よう」
 ようやく相手にされて、晴光さんは期待と不安に胸を躍らせた。
 現れた仕入部長は、蟹の細工物をじっと見つめてから、
「これは面白そうだ。置いてやるけれども、他所に売ってはいけない」
晴光さんに釘を刺して、すぐに制作に取りかかるようにと命じた。
 そのとき、柏木家には電話がなかった。売れると注文が手紙できた。
相次ぐ注文が人気を物語っていた。晴光さんは追われるようにして蟹の細工物
を造り続けた。たちまち、まだか、まだか、矢の催促になった。手紙では埒が明
かないとばかりに、ついには三越の社員が汽車でかけつけてきた。
 どんなに優れたものでも世に出るには時間がかかる。まだ世の中の評価を
得ていない美術工芸鋳物をダメだということはだれにでもできる。だが、プラス
の評価というものは、余程の鑑識眼と信念がないとできないものである。人は
だれしも無難でありたいと思う。早くに出会った日本橋三越の仕入部長が優れ
た人であったことが、晴光さんにとってさいわいだった。そしてまだ若い晴光さ
んを世の中の第一線ともいえる日本橋三越に自信を持ってぶつけたレンさん
の見識もなかなかのものだった。
 柏木レンさんが、どれほど偉い人であったかは、晴光さんを最初に認めたとい
うひとことでわかる。レンさんは日本橋三越だけでは満足せず、暇さえあれば東
京へ足を運んだ。たまたま行く先の一つに東京駅前丸ビルの美術商和風堂が
あった。
 和風堂の主人は商人でありながら、自ら書画をよくし、すぐれた文化人でもあ
った。顧客は大会社の社長・重役ばかりである。よい物でなければ見向きもし
ない。そういう目の肥えた客ばかりが集まった。普通なら敷居は高いはずだが、
レンさんは少しも物怖じせず、そういうところばかり選んで晴光さんの作品を持
ち込んだ。
 和風堂の主人は晴光さんの作品をひと目で見て認め、レンさんにいった。
「次は本人を連れていらっしゃい」
 これだけ紹介すれば十分であろう柏木晴光の美術工芸鋳物は、レンさんとい
うまたとない理解者を母親として得、人間的にも血肉を分け与えられながら、
広く世に知られるようになったのである。

 


左上から時計回りに、寿山福海、仏鈴、鈴各種(おかめ、猫、まさかり),花留め

 

細野燕台に磨かれる

 柏木晴光の才能を素材のまま最初に認め、世に出したのが母親のレンさんで
あったとすれば、その素質に磨きをかけ、一流の工芸家に育てたのが細野燕台
であった。
 細野燕台は陽明学の大家で、中国の軟文学『金瓶梅』などをはじめ、漢詩文
をわが国に普及させた人である。工芸の都・金沢の人で泉鏡花や徳田秋声を
小学校の同窓に持ったのをはじめ、煎茶道を極めて一家をなしてから実に幅
広く人と交わった。その中に徳富蘇峰――そして柏木晴光がいた。
 また、北大路魯山人を世に出した人であり、小田原にゆかりの深い電力王・
松永安左ヱ門、益田鈍翁なども燕台の講義を聞きに通って識見を磨いたので
ある。
 細野燕台は漢学者として活躍する一方、茶道霊沢会を主宰、横浜の高島嘉
右衛門とセメント業を起こし、東京で古美術商を営んだりして、昭和二年には鎌
倉明月院前に最明院を結び、陽明学の講義と茶道に親しんだ。その暮らしぶり
は朝二合、昼二合、夜六合の割合で酒を飲みつづけ、工芸作家の擁護に楽し
みを見出すというものだった。
 工芸の美というものは、算盤を弾く才覚からは生まれない。柏木晴光が燕台
から学んだ大切なものは、そののびやかな人となりであった。柏木晴光は燕台
に接するうちに知らずにその薫陶を身につけていった。
 燕台のまわりに集うのは、当代の各界一流の名士ばかりである。その中に交
わることによって、柏木晴光の世の中を見る眼も開けていった。
 燕台死後十三回忌に当たる昭和三十六年に三越で「細野燕台先生追慕美術
工芸展」が開催された。そこに出品された柏木晴光作の金銅玉子形水瓶に、そ
の成果が見事に表れている。形といい色合いといい、鋳物という素材を感じさせ
ない。その神秘的で気品あふれる作風は、一流の素材が一流に磨かれて光を
放つ――としか言葉では伝えようがなく、柏木晴光の歩んだ人生がそこはかと
なく伝わってくるようである。

 


天女鐘の最後の仕上げ作業。叩いて音色の確認をする

 

師が師を世話する

 鎌倉に藤兵衛さんの代から取引のある八万堂という骨董屋があった。藤兵衛
さんが他界して晴光さんが八万堂へ通うようになった。
 ある日、八万堂の主人が客から注文をうけて晴光さんに銅鑼をつくるように勧
めた。
 晴光さんは引き受ける際に、条件をつけた。
「興味があるからつくりたいが、一流の銅鑼の見本を見たい。そういうのを持っ
ている人を、紹介して欲しい」
「それなら北鎌倉に細野燕台という偉い先生がいる」
 燕台先生のところへ行けば何とかなるだろう。八万堂の主人と最明院を訪れ
たのが、晴光さんと細野燕台のそもそもの出会いだった。
 燕台は快く引き受け、銅鑼の製作で無形重要文化財になった工芸作家魚住
為楽(いらく)を紹介してくれた。為楽は燕台が手塩にかけて育てた工芸作家
のうちの一人である。
 晴光さんは金沢へ飛び、魚住為楽から銅鑼の造り方を学び、工場を見て帰
ると、すぐに制作に取りかかった。
 以来、燕台から茶道具の制作の注文が次々にくるようになった。茶道具の一
つひとつについて詳しく解説し、その持つ意味を懇切に説いて造らせる。恐らく
魚住為楽も、こうして燕台に育てられたのだろう。
 ある日、晴光さんは燕台に母親のレンさんが吉田卯之助の娘だと打ち明けた。
「おう、その人のことなら、俺はよく知っている」
 徳富蘇峰は燕台の終生の友であった。燕台は蘇峰を通じて吉田卯之助を知
ったのだろう。
 燕台が日本橋三越の顧問をしていたことも晴光さんとの結びつきを深めた。
 燕台は晴光さんが一月に最低一度は顔を見せないと機嫌が悪くなるらしく、
すぐに手紙が来た。
「俺のことで何か気に入らないことがあるのか」
 燕台はこういう人だった。
 講義にも指導にも人との交わりにも人並みすぐれた情が、その根底を貫いて
いた。
 晴光さんは母親に恵まれ、そして今また、この上ない師匠と出会ったわけである。

 


昭和の初め頃家族と一緒に。前列左が春光さん。
後列右から2番目少し隠れているのが義母のレンさん。
後列左が父の藤兵衛さん


兄弟愛を根底に・・・・・・
 鋳物は古代中国から伝来した最も古典的な金属成形技法の一つ
である。長い歴史の中で、その技法は磨きぬかれ、かたちのあるも
のなら何でも成型できるという水準にまで、技術が発展してきた。
 小田原鋳物は、鎌倉時代に栄えた相模鋳物が生き残り、後北条
氏のもとで再興した。鋳物師山田治郎左衛門以後、幾多の変遷を
経て、廃業した山田家の工場を柏木本家が居抜きで受け継ぎ、現
在は分家の晴光さんが経営する柏木美術鋳物研究所として存続し
ている。
 その得意とする技法は、晴光さんが東京物理学校の学生時代に
考案した圧搾鋳造術である。粘土で蟹やキリギリスの鋳型をつくり、
そこへ溶けた金属を流し込んで成形する。しかし、従来のやり方で
は、キリギリスの触覚のように微細な部分に金属を流し込むことが
不可能だった。晴光さんは幼いときから見てきた鋳掛け屋の火起
こしのふいごからヒントを得て、湯に圧力を加えて流し込むことに成
功し、以来どのような精密な小物でも成型できるようになった。
 現代の小田原鋳物は仏鈴や風鈴のような鳴り物を代表的な製品
としているが、それは砂張りといわれる銅と錫の合金を用いるため
である。砂張りは古くは「響銅」と呼ばれたほど、鳴り物に適してい
る。この砂張りの銅鑼の製作の第一人者が金沢の魚住為楽だっ
た。その技術の粋は晴光さんに伝授され、小田原鋳物にも受け継
がれることになった。
 柏木美術鋳物研究所は昭和八年に設立されて以来、晴光さんを
社長に康平、四郎、五郎の兄弟が、それぞれに独自の技法を身に
つけ、制作に取り組んできた。
 五郎さんはレンさんの産みの子で、腹違いだったが、給料は年齢
差なくみな同じであった。レンさんの子に注いだ愛情が、兄弟を等し
く一つに結束させたのである。安易な平等からではなく、兄弟愛のご
く自然な発露であった。
あるいは、兄弟のうち一人が欠け ても困るため、同じ車には乗らな
い、という方針を今日まで貫いてきた。兄弟が揃って出かけることは
御法度であった。
 どんなに進んだコンピュータ社会になっても、美術品をつくるのは
人でなければできないのである。技術を超えた〈何か〉を基にしてい
るからである。人を失えば〈何か〉も失われてしまう。
 だが、それほど用心してきたにもかかわらず、人間の寿命には勝
てなかった。兄弟四人のうち康平さんと四郎さんが他界した。晴光さ
んが手がけ、すぐれた音色で評判を取ってきた楽器のシンバルも、
それを受け継いできた五郎さんが離職したため製造を中止した。
 シンバルを製造して出来ないことはないのだが、それをつくるのは
人なのである。造る人がいなくなれば辞める。よいものを造るうえで
いつかは突き当たる壁であった。その代わり、よい音を出したシン
バルの砂張り鋳造の技術は、晴光さんの娘婿の重範さんに受け継
がれ、仏鈴や風鈴となって聴く人の心を癒している。