文・小林 伸男  

舞台・画面に幅広く活躍を


続けるソプラノ歌手


島田 裕子さん

昭和17年、満州(現・中国東北部)に生まれる。戦後、父昭和17年、満州(現・中国東
北部)に生まれる。戦後、父親の実家がある新潟に引き揚げ、小学校1年生の時小田
原市に転居して本町小学校、城山中学校、小田原城内高校に通い、東京芸術大学声
楽科を経て、昭和44年、芸大・大学院オペラ科修士課程を卒業。その間に昭和43年
から1年間、ウィーン音楽大学に留学し、アントン・デルモーターに師事する。
 二期会オペラ『こうもり』のアデーレ役でデビュー。『メリー・二期会オペラ『こうもり』の
アデーレ役でデビュー。『メリー・ウィドウ』のハンナ役、『ナクソス島のアリアドネ』のツェ
ルビネッタ役、ロック・オペラ『イエス・キリスト・スーパー・スター』のマグダラのマリア役、
『天国と地獄』のユーリディス役、『三文オペラ』のポリー役などを次々と好演し、オペラ歌
手として独自の境地を開く。ソロ・リサイタル『Classical・New』でクラッシックからポピュラ
ーまで幅広く歌いこなし、ポップスの分野でも注目される。
 昭和60年に100曲の叙情歌を収録した5枚組レコード・アルバム『こころの歌』をCBS
ソニーから発売して話題となり、その後も日本の歌シリーズ『思い出の童謡』『思い出の青
春』を発表し、平成元年には俳優・林隆三とジョイントしてクリスマスソング・アルバム『HA
PPY LITTLE CHRISTMAS』を、平成3年にはなかにし礼のオリジナル訳詞をもとにした『
モーツァルトの愛の歌』を発表するなど、レコーディングの分野でも幅広い芸域を印象づけて
きた。
 平成4年、オーチャード・ホールで25周年記念リサイタルを開き、成功させる。
 成熟したソプラノでコンサート・ファンを魅了するばかりでなく、ミュージカル、
ポピュラーの分野でも活躍し、テレビの司会、コメンテーターとしても軽妙なおしゃべりで人
気があり、幅広い層から高い支持を得ている。著書に『希う母のまなざし』(フレーベル館)が
ある。小田原市の城下町大使としても活動。
何て空の青い町なんだろう
 誕生の地・満州は現在中国東北部と呼ばれて、国名としても地名としても使われなく
なってしまった。両親の話では果てしなく地平線のつづく土地で、半端な寒さではなか
ったというが、終戦と同時に引き揚げて住んだ新潟の冬も長く雪に閉ざされて、寒々と
していた。
 小学校一年生の途中で転居してきた小田原は、信濃川のようにとうとうと流れる大
河こそないものの、長い砂浜の向こうに広々とした海が広がり、箱根の山から降りて
くるような感じでつづく山には、明るい日差しが燦々と降り注いでいた。
 「なんて、空の青い町なんだろう」晴れ間の少ない長い冬を過ごしてきた祐子さんの、
それが小田原の第一印象だった。
 転居した十字町はかつて武家屋敷町だったところで、現在は南町と呼ばれているが
、新たに住まうことになった家は庭も広く、大勢の親戚の人々と一緒に住んでいた新
潟の家のように狭苦しい感じがせず、のびのびと過ごすことができた。
 島田祐子さんの旧姓は遠藤、父親は医師、母は声楽家という比較的めぐまれた家
庭に兄三人妹一人の長女として生まれたが育ち盛りの時代は餓死者のニュースが新
聞紙面に散見されるように全国的食料難のさなかだった。
 食べ物に不自由した思いこそないものの、贅沢したこともない。おやつなどはなく、
躾も厳しかったが、自由に遊ぶことができた。
 遊ぶ仲間として近所の子どもたち、学校の友達、兄や妹の友達などが大勢ごく自然
に祐子さんのまわりに集まってきた。 缶けり、縄跳び、馬乗りといったところが遊び
の定番であったが、いずれも半端ではなかった。
 缶けりの隠れ場所は家のまわりにとどまらず遠く離れた浜の方まで広がり、とうとう
見つからぬ者も出たりして箱根の山へ行ってしまったのではないか、と冗談まじりに笑
って終えることもあった。
 公園でする縄跳びも五人や六人ということはなく、常に十人は越し、ときには二十人
近くが跳ぶこともあった。
 馬乗りも同様に何人もが数珠つなぎに連なり、ひとたびつぶれると捻挫する者も出る
という激しさだった。
 遊びが始まると一日がかりで、祐子さんは男の子か女の子か見分けもつかない感じ
で、夢中になって遊んだという。
 これらの遊びの輪の中心にはいつも遠藤家の庭の一本の楠があった。そのとてつも
なく大きな楠は、張り出した枝に葉を繁らせて、いつも頭上を覆っていた。春先には若
葉がことのほか美しく、西湘の温暖な陽光を浴びて明るく輝いた。
 今見ると、不思議なことに、頭上を覆いつくすほど大きく感じられた楠が、それほど大
きくはない。楠も成長したであろうに、なぜだろうかと思う。


東京芸術大学在学中、友人宅のバラ園にて

歌いたかったら体を治してきなさい
 小田原には、当時、音楽ホールはなかったが、学校の講堂を使ってコンサートが開
かれていた。父親は医師であったが音楽が好きで、母親に合わせたのだろうか、衣
食にはつましい暮らしを送りながら、夫婦してそうしたコンサートなどへ欠かさずに出
かけて行った。兄弟姉妹が育ち、祐子さんも相応の年齢になると、声をかけられるよ
うになった。
 母親はクラシックの声楽家であったが、兄たちが異分野のプレスリーやミュージカ
ルに夢中になるのを見ても、少しも咎め立てすることはなかった。
 「いいものはいいじゃない。何も、嫌いなことをすることはない」子は親を見て育つと
いうが、こうした音楽一家的な暮らしの中で、特にいわれたわけでもないのに、祐子
さんは声楽家になるものだと、ごく自然に考えるようになった。なろうというより、他の
職業につくことは考えもしなかったというほうが本当かもしれない。
 兄の影響もあって、ポピュラー音楽への関心も培われた。祐子さんも、いいものは
いい、という感覚だった。たまたま西洋音楽を専攻していただけである。
 本町小学校、城山中学校、小田原城内高校を出て、東京芸術大学の声楽家へ、
祐子さんはごく自然な道筋をたどるように、声楽家としての人生を歩んでいった。
 ソプラノのオペラ歌手を志す祐子さんを指導したのは柴田睦陸教授であった。この
道では当たり前のことなのだが、その指導にはなかなか厳しいものがあった。しかし、
それは数を歌えということではなかった。
 歌手は楽器を喉に持つ。それを鳴らすのは全身なんだという。小鳥が小さい体でよ
く響く声でさえずるのと同じで呼吸と共鳴が大事体のどこか一カ所が悪くても、呼吸の
バランスがくずれてしまう。
 たとえば、小指に怪我をしたというようなとき、「それを庇うために悪い癖がつくから
歌うな」 と、柴田教授は厳しく戒めた。
 「完璧な体をしていないとどこかが違うことをして、違う歌い方を体が覚えてしまう。
歌いたかったら体を治してきなさい」
 だから、祐子さんが舞台で履く靴のヒールの高さは、すべて七cmと決めている。
高さが一定していないと呼吸のバランスがくずれるからだ。
 芸大を出れば、その先に道は当然あるものと、祐子さんは思っていた。もちろん道
はあるのだが、優れた先輩たちが塞いでいる現場に直面して愕然とした。
 職がない……しかし、柴田教授は教え子の就職を世話することをしないことを信条
としている人で、戸惑う祐子さんをやんわりと突き放した。
 「オーディションでも何でも受けなさい。自分の実力で勝ち取った役とか仕事なら自
信を持ってできるでしょう」
 オーディションを受けては落ちをくり返しているうちに祐子さんが卒論に選んで演じ
た『こうもり』の一場面が、二期会の関係者の目にとまった。
 それから後は実力と出会いの世界だった。
 たびたび共演した立川澄人さんは舞台の師匠ともいうべき人で、どうしたら聴衆に
満足して帰って頂けるか、という心遣いを教えてくれる人だった。自分の歌を聞かせ
るというだけでなく客席の層に合わせて「今日の客は重いから、ここにこの曲を入れ
て」というふうに、あらかじめ組まれていたプログラムを当意即妙に変更してまで、ホ
ールの雰囲気を盛り上げた。
 黒柳徹子さんからは、言葉遣いの緩急のテンポの使い方など微に入り細に入り教
わったが、祐子さんが血肉として受け継いだのは、もっと基本的なことだった。
 「決めの言葉をつかえたら、それまでの布石が全部駄目になるのよ。涙に貧富の
差はないけれど、笑いには相手によって大きな違いがありますから、工夫が要るわ
ね」 祐子さんはこうした出会いのたびにアドバイスを真摯に受けとめ、芸域を広げ
ていったのである。


オペラ公演(立川澄人さんと)

包装紙は見せられるが中身を伝えるのは容易ではない
 島田祐子の歌が島田祐子の歌として自覚されたのはオペレッタを学ぶ目的で大学院時
代に決意したウィーン留学だったかもしれない。祐子さんはウィーンへ行って三日過ごした
だけで、オペレッタは日本人には無理だなと感じた。
 祐子さんが滞在したのは伯爵夫人の家であった。メイドさんがいて、手を拭くタオル一つ
にも伯爵家の紋章がついている。朝からクラシックな長いドレスを着て椅子に掛け、コーヒ
ーを飲み、夜はシャンパン・グラスを傾けてパーティーに行くという優雅な暮らし――オペ
レッタの舞台、雰囲気が日常生活の中にそのままあった。
 畳の上で生活し、お茶漬けを食べ、緑茶を飲む。そういう暮らしが身に染みついた日本
人が、舞台の上でいきなりカツラをかぶり、例えばシャンパン・グラスを傾けるなど、オペ
レッタの世界の生活習慣を理解するまでに大変なエネルギーを必要とする。そこからさら
にウィーン風の音楽を余裕を持って歌いこなし、ペーソスを醸し出さなければならないの
である。
 ウィーンの歌手は自分たちの送る生活をそのまま舞台に持ち込めばよいが、日本人は
シャンパン・グラスの持ち方などを一から真似しなければならない。彼ら彼女たちは十八
ともなれば、だれもが社交ダンスを習い、舞踏会の場数も踏んできている。
日本のチントンシャンとは明らかに違う。空の星にしても日本で見る星と違う。
 シューベルトの『野ばら』を歌うにしても、その歌の心を本当に伝えるためには、一輪千
円もする大輪のバラをイメージする日本人に、ウィーンの垣根を彩る荒々しく可憐なバラ
から説明しなければならない。
 ウィーンの冬は厳しい。四月の半ばまで晴れ間もなく曇り空ばかり続き、寒さも厳しい。
『春へのあこがれ』という歌があるが、春を待つウィーン人の思いは半端ではない。ようや
く春が来て青空がのぞくと、年寄りたちがまるで冬眠していた虫が現れるように、次々に
公園のベンチに出てきて日差しを浴びる。
 しかも、言葉の問題もある。包装紙はそれらしく見せることはできても、中身は伝えられ
ない。どうしたら、本当の中身を日本に帰って伝えられるかなあ。
 向こうにいる間、ずっと考えつづけて帰国した。


自宅にて

今なら歌える
 祐子さんはそうした経験を踏まえ、聴衆に自分の歌声を聞かせる前に、いつ、だれ
が、どこでつくったか、ということを徹底的に調べる姿勢を身につけた。
 たとえば『浜辺の歌』を歌おうとす るときには、そこでいう朝は何時なのか、夏なの
か冬なのか季節はいつなのか、太陽の位置はどのへんなのか、あるいは日本海の
海なのか、太平洋なのか、瀬戸内海なのか、伴奏から考えて太平洋側の静かなとき
の海だろう、というように。
 主人公は女の人、幾つぐらいだろうか、着物を着ているとして何色にしようか。昔の
だれをどういういうふうに思っているのだろうか。
 こんな感じで歌の世界をつくっていく。それをどれだけ伝えられるか。
 苦心の末に、さらりと歌う。歌うだけなら「こころの歌」百曲に一年もの歳月をかける
ことはなかったろう。疲労の極に達しながらそれでもなお一曲一曲丹念に歌の世界を
構築し、歌心を極めようとした結果である。
 男まさりの遊びを送り、天神山を超えて中学校、高校へ通った体が、強靭に島田祐
子の歌を支えた。
 大きく見えた庭の楠も小さく感じられるほどに成長し、二十七歳で結婚し、母親となり、
一個の人間として、一人の女性として、人生ドラマをくぐり抜けてきた。その間に多くの
人との出会いがあったろう。立ってみなければわからない不特定多数の聴衆を相手に
した真剣勝負の舞台だから、当然、すべてが思い通りになるはずがなかった。
 すくすく伸びたし、伸び切れないときもあった。クラシックの幹に年輪を重ねながら、様
々な枝葉を繁らせた。雨風に耐え、呼吸し、光をいっぱいに浴びてきた。
 たまさか実家に帰ると、今でも庭で葉を繁らせる一本の楠のもとに立ち、祐子さんは
そっとささやく。
 「今なら歌える」その思いに島田祐子のこれからがある。